フラメンコ談義
第22回
夏のフェスティバル 4
「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」1979年9月8日
― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―
トゥリアーナでの生活にも慣れてきたころ、まだもう一つ判らなかったのが『ヒターノ』(ジプシー)と『パジョ』(payo:[ジプシーにとって]よそ者、非ジプシー)の関係でした。「ヒターノ」のなかのフラメンコアーティストは一見して判るのですが、スペイン人の中の「ヒターノ」は区別がつかないぐらいに溶け込んでいるようでした。
しかし、ある日「バル」で飲んでいるとスペイン人のおっちゃんに、『今居たヒターノには気をつけるにゃで~』・・『今の兄ちゃんはヒターノか?何で注意しなあかんのや?』『・・・友達にはならんほうがええという事や。』『・・ふ~ん』、『・・・それって、日本人の中にも、スペイン人の中にも居るような奴か?』・・・『・・まあ~、そういうことや。』
『おっちゃん、CAMASの町へはどうやって行けばええの?』『川向こうやが、何しに行くのや?』『フラメンコのフェスティバルを見に行くのんや!』・・・『・・少し前まで、「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)がたくさん建っていた「ヒターノ部落」やったが、今は5階建ての「ピソ」(アパート)がいくつも建った小さい町や。・・・行くのはええが、・・・気つけや!』
毎日のように「バル」で合うこの「スペイン人のおっちゃん」は、もう退職して年金で生活している、穏やかな、やさしい「おっちゃん」でした。しかし、「ヒターノ」にとっては「パジョ」であるこの「おっちゃん」の、「ヒターノ」に対する気持ちが伝わってきました。
有名なバイラオーラ(女性フラメンコダンサー)の『Matilde Coral(マティルデ・コラル)』に『おまえに教えることはもう何もないから、「自分の踊り」を踊っていきなさい。』と『マヌエラ・カラスコ』は子供の時に言われたそうです。
私が彼女の踊りから受けた強烈な印象は今も忘れられません。
初めて、彼女の踊りを見たのは、エル・プエルト・デ・サンタマリアという港町でのフェスティバル:『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)でした。当時の彼女は、今のようなお金をかけた派手な衣装ではなく、ヒターナの日常を思わすような質素な衣装を着ていました。また、劇場用に演出された踊りではなく、砂ぼこりが立つ「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)の前で生まれたような踊りでした。「マヌエラ」から目を放せないギタリストやカンタオール(歌い手)と、彼女との緊張した掛け合いの舞台でした。別の「フラメンコの世界」からやって来た“フラメンコ”を観たと思いました。今もこのときの実況テープを聞くと、痩せた彼女の舞台を、その興奮を思い出します。
トゥリアーナの東側には広い河川敷が広がり、グワダルキビル川(本流)が流れていま
す。橋を渡って北に行くと、「カマス」の町です。
「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」(1979年9月8日)のフラメンコフェスティバルは規模が今まで観たものより小さく、舞台の近くで見ることが出来ました。
はじめに、「 Lele de Camas 」の歌で、ギターは「 Parrilla de Jerez 」次に
「CHOZA」の伴奏は「 トマティート 」でした。( カマロンは出演料が高すぎて呼べなかったのだと思います。)
舞台に椅子やマイクがセットされ、ギターが“ソレアレス”を弾き始めました。カンテ(歌)が始まっても『マヌエラ・カラスコ』はまだ座っています。しかしその座っている彼女の表情や身体全体にスポットがあたっているかのように、うきあがって見えてくるのです。そしてゆっくりと立ち上がり、舞台をうつむいて歩く彼女の顔は『能面』のようで、一瞬、「能の舞」を思い出しました。そして、20分にも及ぶ踊りの間、彼女の表情は変わらず、一つの面で喜怒哀楽の変化に応じる『能面』のようでした。
「 ア~イ~ ・・ アイアイヤ~イ~・・ア~イ~・・ア~イ~・・ア~~イ~イ~・・アアアアイ~イ~ゥ・・ア~イ~イ・・ジャジャ~ジャ~ジャ~~ゥ 」・・・と始まるカンテ(歌)のイントロは、迫害されてきたヒターノの、苦痛や悲痛のうめき声とも嘆き節とも云われています。
放浪の旅を続けて定住せず、風のように自由に生きていたという彼らは、綺麗な水があるそばに住み、そこが誰かの土地であろうが関係なく生活し、税金も払わず、国家を認めない彼らを、周りのスペイン人はうらやましく思っていたといいます。
最近、フランスで第2次世界大戦中に国家権力のもとにジプシーが捕らえられ強制収容所に閉じ込められた事実が公表され問題になっています。
昔スペインが統一された頃(15世紀末)王は、「定住するか、出て行くか、死ぬか」を、ヒターノに迫った(ジプシー迫害令)といいます。定住していない者、戸籍がない者からは税金が徴収できません。このイサベル・フェルナンド両王の時代からカルロス5世、フェリーペ2世、フェリーぺ3世、フェリーぺ4世の時代へと何世紀にもわたって法的迫害は続いたようです。
新大陸貿易時代の「ガレー船」や、「炭鉱」での強制労働、そして南アフリカで行なわれていた「アパルトヘイト」(人種隔離政策)に近いヒターノに対する差別・・・・・
迫害の辛い日々や、鳥のような自由の喪失、貧しさや飢え、容赦のない刑罰、強制労働・・・などに対する嘆きが、カンテ(フラメンコの歌)のイントロの「アイアイヤーイ~・・・」に込められているといいます。
非常にジプシー色の濃い歌(カンテ ヒターノ)である“ソレアレス”のこのイントロを聞きながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる彼女、肩を落として舞台を歩きながら、カンテ(歌)を聞き、ギターがファルセータ(小メロディー)を弾き終わると、テンポを上げた「ジャマーダ(靴音による合図)」でコンパス(リズム)を〆、その同じ速いテンポで短い「サパテアード(靴音の技)」、そして再び「ジャマーダ」で〆るのです。しかし、もう肩は落としていませんし、顔を斜め下に向けていますが胸をはって堂々としています。
カンタオール(歌い手)の歌い節と彼女の踊りの絡み合い、そして、「ジャマーダ」で〆、「サパテアード(靴音の技)」が延々と続いていきます。もうリズムは「ソレア」より早い「ソレア ポル ブレリア」になり、舞台と観客を引っ張っていくのです。
会場がだんだん盛り上がり、コンパス(リズム)が歓声とともに大きな「うねり」のようになっていきました。最後、カンタオール(歌い手)は、「サ~ングレ(血)! サ~~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サングレ(血)! サングレ(血)! ア~~ィ~~ア~・・・!」・・・と熱唱して、上を向き両手を高々と上げる『マヌエラ カラスコ』に続いて舞台を降りていきました。
迫害のなか、肉親を亡くし、耐えがたい生活状況。生きるのに不可能な『苦悩』に満ちた現実のなかに『喜び』を感じるという矛盾した情念からか、「マヌエラ」の表情は苦悩に満ちながらも希望を信じ、それを見つけたかのようです。胸を張って力強く踊る彼女は、 その場にいる全ての者が一つとなる“ドゥエンデ( Duende:不思議な魅力)”― 至高の状態 ― へと引きずり込んだようでした。
[20回]