フラメンコ談義・5
* ギターで飯が食えるか! *
・・・私が、パコ( パコ・デル・ガストール)に会う為にモロン(モロン・デ・ラ・フロンテーラ)に行った時、パコの弟のフアンがフォンタネロ(水道工事人)の仕事をし、パコも手伝っていました。 そう、こちらでは、仕事が無い時は出来ることはなんでもするのです。 そういえば、セビージャのペーニャ・フラメンコで会った、ホセと言う歌い手は、エル・コルテ・イングレス(スペインのデパート)に働いていると言っていたし(ソレアがうまかった)、レンフェ(国鉄)で働いていたぺぺはシギリージャがとてもうまく、『アルボンディガ、いいか、トカオール(ギタリスト)はな、ここではそうは弾かないんだよ、・・』と教えてくれたのが忘れられません。・・・当時「フラメンコを楽しむと言うことと、お金を稼いで生活することは違うんだな~」と思ったものです。・・・
高校三年の文化祭も終わり、ギターばかり弾いていた私も、皆と同じように自分の進路を決めなくてはならなくなり、さて、どうする?・・・・・・『ギターで飯が食えるか~!』
????・・「たいへんだな~」 『そしたら何をして生きていく!』????・・・
とにかく分からないので考える時間が・・と思っていると、担任の先生が、『あなたは就職するのですか? それとも進学するの?』・・・『美術の先生に進められたので、京都芸大を受験しようと思っています。』・・・といっている自分に、(ほんまかいな!何考えてんの?)と思う自分。・・・・
ギターで、それもフラメンコギターで生活していくことはとてもたいへんなのが高校生の自分でもわかり、かといってギターは続けたいし、・・・「学科は勉強しなかったので、実技でカバーできるかも?」「とにかく、授業料が安い公立の大学に入れば、周りも安心だし、自分も好きなギターが弾けるかな?」・・・と、当時は気楽に考えていました。
とにかく美大を受験することになり、京都芸大は、1500点満点で、合格点に、70点足らず、断られ、翌年、金沢美大は合格点に3点足らずに断られました。 しかし、金沢で受験の前の日に、“パコ デ ルシア”のコンサートがあるというポスターを見て、無理をして聴きに行きました。 おかげで、受験の石膏デッサンは2番、鉛筆淡彩は4番でした。つまり実技は上から3番(まぐれ)。しかし、面接で『何で学科をもっと勉強しなかったんですか?』 「あ! はい。」と答えている自分の頭の中には前日のパコ デ ルシアのギターが流れていました。
未だスペインへ行くことも考えず、アルバイトして、絵の教室に通い“ミロ”や“クレー”“カンデンスキー”に凝り、そして気分転換にギターを弾き、友達と酒を飲む、と言う浪人生活の中で、ギターソロの“サビカス”“ニーニョ リカルド”から“パコ デ ルシア”“セラニート”“マノロ サンルーカル”そして、“パコ デ ルシア”が伴奏しているフラメンコの歌い手、『カマロン』を聞き始めていました。
[10回]