フラメンコ談義 8
*『18歳から、たたみ一畳につき、いくら払って来た?』*
尋常小学校の4年生まで学校に通い、11歳の時から西陣の「おりや」さん(能と歌舞伎の衣装専門店)に丁稚奉公に出た私の親父にとって、二十歳にもなる息子から、大学の入学金の相談(催促)を受け、『おまえも、大変やな、 まあ、頑張りや。』・・・と言った親父が今ではとても好きです。
「冷や飯」に、「めざし」と「たくわん」、という「丁稚の食事」で、頭をたたかれながら覚え、磨いてきた自分の技術を二人の息子に伝えたかったのだろうと思います。兄貴もそうだったようですが、『私立の高校は高いからあかん。安い公立の高校の入学試験に落ちたら、わしのあとつげよ。』と親父から言われ、そういう約束でした。高校の入試発表の日、私より先に発表を見てきた親父とばったり高校の近くで出会いました。 『あった、あった』と私に伝え、雨の中、小走りに仕事場に戻っていく親父、一瞬、時が止まったようなその場で、親父の声の余音が残るなか、曲がり角までしばらく見えていた親父のうしろ姿が、忘れられません。・・・・
『お父ちゃん、これが今まで貯めた、貯金通帳で、これが飛行機の切符です。一年か二年、ちょっとスペインに行って来ます。』『・・・・・』親父は何も言いませんでした。
数日後、仕事で京都にもどった兄貴と銭湯に行き、しばらく会えない兄貴の背中を流しました。 『ちょっといっぱいやろか』風呂屋の向かいの「すし屋」に誘われ、『ええ兄貴や。 まずはビールやな、なに食べよかなー 』と思いながらカウンターに座りました。
ビールを一口、そして、「つきだし」を摘んでいたら、『おまえ、お金持ちの家の息子みたいに外国に留学するんやて ?』・・・『( えっ! ) ・・・高校出てから好きなことして来たけど、アルバイトして、大学の学費も親には迷惑かけなかったし、少しやけど自分の食費も家に入れてたし、経済的に自立せんと何もいえないから、・・今回も自分で貯めた』と私が話しているところに、兄貴から、『おまえの寝てる部屋は4畳半やったな、18から、たたみ一畳いくら払って来た ? 』・・・・・・・・『おまえが貯めたお金は、 本当におまえのもんか ?』 『・・・』しばらく何も言えず、すしの注文どころではありませんでした。
しかし、この日の夜、私は兄貴から多額の餞別をもらいました。その封筒をマドリッドのペンションの小さな部屋で、家族の写真と共に見て、兄貴の言葉を思い出したものです。
1978年の11月の末頃、いまは亡き三人(両親と義兄)に、伊丹空港まで送ってもらい、羽田から、できたばかりの成田空港にバスで着き、「18万5000円・ローマ・パリ8日間ツアー」を利用して(というのも、片道のパリまでのエアー料金が「大韓」で13万5千円でした。5万円の追加でローマとパリがホテル・観光・食事付きで見れると思ったからです。)、パリからは一人で、夜行電車に乗って、12月の3日、とても寒くて小雨のマドリッドのチャマルティン駅に着きました。
地下鉄の「アントンマルティン駅」の近くの「アモール・デ・ディオス」道りに在った、フラメンコの練習場と、近くのペンションを往復するマドリッドの生活が始まりました。
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