フラメンコ談義 第20回
* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *
「ラ・タティー」(踊り手)の表現の豊かさには、ビックリしました。「ソレア」が歌われている時の彼女は、綺麗な衣装を着た19世紀頃の婦人(マハ)のように思え、ジャマーダ(〆、区切り。新しい事をはじめる前の一つの終わり。)でカンテ(歌)をかっこよく盛り上げて終わり、「エスコビージャ(足のリズム)」が始まります。
踊り手の感性の豊かさと、足の技の見せ所でもあるこの「エスコビージャ」で、タティーの感情の押さえからか、テンポもゆっくり始まり、徐々に盛り上がっていく変化、また、どうしたのか、音が静かになり、テンポも遅くなっていき、悩みを抱えているかのような振りが続き止まるかと思うと、徐々に、考え方を変えたのか、落ち込んでいた気持ちをだんだん晴らすかのように、テンポが上がり、音も強く軽やかになり、胸を張って踊るのです。 時にはスカートを持ち上げ、また、腰を色っぽく動かしたり、・・・
・・・・『あんな男の一人や二人、ドウ~ってことないわ! 私の方からバイバイしてあげるわ! フン ! そこのお兄さん、私の綺麗な足見てんの~? それとも私の身体の曲線美 ? 結構いい女でしょ! わたし~。 声をかけてもいいわよ、一緒にお酒飲まない!!』と、言っているかのように観えたのです。
・・・・「えっ!~?!! ぼく~、そんなつもりで見ていたのでは、えーと~、まだ自信がありませんので、次回にします~。」と、オクテだった私はこんな事を勝手に思って、一人で赤くなったことを思い出します。
タティーの踊りの後、ランカピーノが歌うまで、しばらく、フェスティバルも休憩。ワインを飲んだり、つまみを食べたり、わいわいがやがや。・・・
『オラ~! ササ(佐々木の略)! コモエスタ(・・赤坂は言いません)調子はどう? やっぱり観に来てたんか。』と知り合いになったトゥリアーナのおばちゃんが声をかけてきました。
このおばちゃんの家に昔、日本人がホームステイしていたとかで、以前、話しかけられ、家におじゃましたことがあります。
その時、家には中学生のひとり息子が食事をしていました。おばちゃんは、とっくに食べ終わったのに、息子は、もりもりまだ食べていると言うのです。
『この子は、チュレタ・デ・セルド(骨付きの豚肉のステーキ)を7枚も食べんのよ!まったく~』と言いながら、自慢の、背の高い息子を紹介してくれました。息子は食べ終わるとテーブルのものを台所へ持っていき、外へ遊びに行きました。
『日本はスペインより何もかもが進んでいると聞いたんやけど~、街はどうなってるのや?』・・・『そら~もう、自動販売機にお金を入れたら、何でも出てくるし、車は喋るし、道は歩かんかて、道が動くし~、地下鉄があり、地下街には何でも売っているし、人は多いけど~、シエスタ(昼寝)は無いよ、また、美味しくて安いワインも無いな~、・・・・』
『ほんまかいな !?』と、おばちゃんが驚いています。(「ちょっとおおげさに言い過ぎたな~」と思いながら、おばちゃんの話が続きます。)
『だいぶ前に、あては旦那を亡くして苦労してんのんやけど~、お金を機会に入れたら~、男も出てくるかな~?』・・・『おばちゃん、それは無理やわ !』・・・
『やっぱりあかんか~、ワッハハ~』・・・・。
このおばちゃんは、路線バスに乗ってポルトガルとの国境を越え、シーツやテーブルセット、綿のタオル、麻の布、コーヒー、等を買出しして(当時、これらの物はスペインよりポルトガルの方が安かったのです。)、 その日にセビージャに戻り、毎日家々を回って行商して、無くなったらまた買出しに行くのです。
『今、息子に小遣いもやれない時が~、腰は痛いし~、でも、もうじき楽になるやろから、 ビールもう1本飲もか?』・・・・『------ん~。』・・・・・
・・・・あれは、私がまだ小学生の3年生ぐらいの頃でした。隣町内の、大八車を牽いて八百屋の行商をして三人の息子を養っているおじさんが、家に来て私の親父に何か泣きながら話して、帰っていきました。
おやじが『あした、お前の小学校へ行かなあかんわ!』・・私のおふくろが『なんでどす?』・・『お金が無いから、子供に給食代を持たせてやれなかったのに、先生が「忘れたらアカンや無いか!」と子供を怒って、黒板に名前を書いたと言うんや!』・・『そんな!かわいそうなこと~、先生もせっしょやな~、子供にそんなこと!! あてもその先生に、もんく言いたいわ! 』・・・
翌日、私と親父は一緒に家を出て、学校に行きました。親父は職員室に「殴りこみ」、いいえ、抗議するために入っていきました。
家を出る前におふくろが、『うちの家にもお金がなにも無いのに、うちのお父ちゃんは他人の事は親身になって、よう動かはんな~、お金にならへんのに。ア~あ、また、手間賃が入らへんがな~!』・・・と言っていたのを、親父のうしろ姿を見ながら思い出しました。 ・・・・・
このトゥリアーナのおばちゃんには、何度も食事をご馳走になりました。ある日、私のおふくろのことを話しました。
・・・「親父の知り合いの「若い人」( 親父が言うには、「あいつは今、地下にもぐっとおんにゃ」、「モグラかいな?」「そおや、えらいやっちゃで。」「・・?」)が来ると、おふくろは卵の入った焼き飯を作ってあげていました。われわれ家族のには卵は入っていなかったのに。・・・
私が小学生の頃は、「鍵っ子」で、仕事から帰ってくるおふくろの、家に近づく足音がどんなに待ちどうしかったか。・・・
おふくろの休みの日、外で遊んで帰ってきて、家の玄関を開けるとき「コトコト、トントントン~」と聞こえる、まな板の音がどんなに嬉しかったか。」・・・
私は、『・・・、母親に親孝行したいんだ、おばちゃんを見て、今また、思っているんだ。』と、下手なスペイン語で私の気持ちをなんとか伝えました。すると、おばちゃんは私を抱き寄せ、両側の頬にキスをし、『グラシアス、 ササ、お前の言いたいことは、よーわかったわ、おおきに、ありがとう!』
なんとか、「おばちゃんの息子は、きっと親孝行してくれるよ」ということが伝わったようでよかったと思ったものです。・・・・
フェスティバルが再び始まり、歌い手も、ランカピーノ、フアニート・ビジャール、カマロン、レブリハーノ、エル・アレネロ、ペドロ・ペーニャ、チケテテ、そして、ファル-コの踊り、・・・と、延々と続き、終わった時は、空がもう明るくなってきていました。
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