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フラメンコ談義 16
* シエスタ(昼寝)は、一日を二度楽しむため ! *
6月のセビージャは、朝晩はまだ涼しいのですが、昼間は35度を超え、40~43度ぐらいまで上がることがあります。しかし日本のように湿気がありませんので日陰は風があると意外と涼しいのです。
ある日、いつものように、ペンションの向かいの「BAR(バル)」(日本の喫茶店、兼、居酒屋)で遅い朝食(コーヒーとチュ-ロス)をすませ、散歩に出かけました。
トゥリアーナ橋まで行くと、初めてセビージャに着いた日に見た『黄金の塔』や、『ヒラルダの塔』、そして遠くに『スペイン広場の南北の塔』などが夏空の下に広がり、橋の下を流れるグアダルキビル川には、カヌーやボートが浮かび、練習していました。
橋を渡らず、川べりのベティス通りをぶらぶら歩いていると、魚を釣っている人がいました。しばらく見ていましたが、あまり釣れないようです。
この川でうなぎを釣ったという「原さん」(セビージャで世話になった友人)の話は~、・・・「蒲焼にして食ったら美味かった~!」・・・、ほんとうかな~?と思いながら、日陰に座って扇子を使っている「おばあちゃん」や、葉巻を吹かしている「おじいちゃん」に、「オラ~ !」と声をかけながら、オレンジの並木道を歩きました。
『黄金の塔』の向かいあたりまで歩き、「リオ グランデ」という高級なレストランの横の「BAR(バル)」で休憩。川の向かい側の街並みを見ながら、カーニャ(小コップ一杯の生ビール)とタパスの「チャンケッテ(5センチ位の小イワシ)のから揚げ」をつまみながら、
・・・『 日本で「古事記」が書かれた頃、イスラム教徒がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島を侵略、12、13世紀頃、今のモロッコから再びやって来たイスラム教徒が『黄金の塔』や『ヒラルダの塔』を建てたんだよ。そして、船が海から川を上がってきて、ここセビージャは港だったんだ。 コロンブスの時代も、 支倉常長が来た(1616年)時代も、18世紀の初めまで。・・・ 』
・・・と、友達になった「原さん」から聞いた話を思い出していました。
また、フラメンコは、日本の幕末から明治維新の時代に、今の“ タブラオ ”(フラメンコを見せる店)の初期の「カフェ・カンタンテ」(ヒターノたちの歌、踊りを主体としたアトラクションを見せる居酒屋)がこのセビージャで始まったんだな。・・・などと考えているうちに、小さいコップの「カーニャ」が、「タンケ」(日本の生ビールの小ジョッキーぐらい)に変わり、ラジオからは今年のヒット曲の「セビジャーナス」がながれ、つまみも、「ポークのトマト煮」、「タコの酢の物」、「ホタルイカのから揚げ」というタパス(小皿のつまみ)に変わっていきました。
少し早い昼食が済み、左側前方の『黄金の塔』を見ながら、「サン テルモ」橋を渡り『ヒラルダの塔』を目指して歩いていると、ビールを少し飲みすぎたのか、トイレがしたくなり、ちょうどホテルがあったので助かりました。とても豪華な五つ星で、『 アルフォンソXIII 』といい、自分の恰好が少し場違いかなと思いながら、しかし、馬鹿にされたらアカンと思い、悠々とトイレをして出て来ました。
ホテルを出て、左側に天使が彫刻された噴水を見ながら横断歩道を渡り、ツーリストオフィスを過ぎると、コロンブスが集めた新大陸の資料を納めた「インド古文書館」が右に、そして世界で一番大きな「カテドラル」(大聖堂)が正面にドカ~ンと現れびっくり。スペイン人が『 セビージャ、マラビージャ! ヒラルダ!、プータマドレ!!』といって誉めて自慢する、『 ヒラルダの塔 』・・・とにかくスゴイ、、、そしてまた、気高さも感じ、「なるほどな~」と納得しました。
『 塔の一番上は信仰のシンボルの女性で、風見になっていて、ヒラヒラ動くから「ヒラルディージョ」と言うのです。 』と教えてくれたのも「原さん」でしたが、当然、塔の下からは風見は見えませんでした。
大聖堂を後に大通りを進むと、古い市庁舎がありました。「この中に、支倉一行が持ってきた『巻軸』が本当にあるのかな~ ?」と、彫刻が施された立派な建物を見ながら思いました。
そして、地図を見ながら、市庁舎の横のプラサヌエバという広場を横切り、闘牛場へと向かいました。
「マエストランサ闘牛場」の横の大通りの向かいに建っている、あのオペラの「カルメンさん」の像に挨拶して、トウリアナ橋を渡り、ペンションに戻って、また夜のための、「シエスタ」(昼寝)です。今日の夜に会う人から「カンテフェスティバル」(フラメンコの歌のフェスティバル)の情報が聞けるのを楽しみに、ぐっすり寝ました。
[13回]