フラメンコ談義 9
*「アルボンディガ」の名付け親である、「PEPE」との出会い *
30キロの荷物とギターを持って、パリの駅でマドリッド行きの夜行に何とか乗れ、パスポート検査を国境近くで受け、書類を3枚も渡され、辞書を引いてもさっぱり分からず言葉が通じない世界を初めて経験しました。
マドリッドのチャマルティン駅からタクシーでペンションにやっと着き、知り合いのギタリスト「TAKEMORI」さんに会えてほっとしました。
一日260ペセタ(当時800円ぐらい)の、空いていた小さな部屋に荷物を入れ、彼からペンションのことや、スタジオ(フラメンコの練習場・通称「アモール」)のこと、彼が紹介してくれる踊り手やギタリストのことなどを教えてもらいました。
これから生活する部屋で荷物を整理していると、『PEPEが来たから紹介するので、俺の部屋に来てくれる。』と呼ばれ、部屋に行き、紹介してもらったのが、昔、私がはじめにギターを習った西村健太郎さんからも聞いていた、有名な日本人ギタリストの「PEPE」でした。
挨拶をし、今朝マドリッドに着いたこと、日本でどうフラメンコと接して来たのか、・・など話した後、 『あなたも、スペインの名前が無いとスペイン人が覚えられないから、・・・彼(TAKEMORIさん)は“バンブー”なんだけど・・・あなたは~・・・そう、“アルボンディガ”・・・かな、いいだろ?』とPEPE。・・・『いいいい、最高』とTAKEMORIさん。・・・二人で大笑い。訳のわからない私まで笑ってしまいました。笑った私の顔を見て一人はまた笑い、もう一人は私の顔に指をさして、またまた大笑い。 当然どういう意味かは二人とも教えてくれませんでした。
笑い終わった後、PEPEが『あなたはついていますね。スペインに着いた今日、歌い手のエル・ガジーナ(ラファエル ロメ-ロ)とペリーコのギターが聞けますよ。!!』私は二人ともどんなアーティストなのか知りませんでしたが、お願いして、三人で出かけることになりました。
出かける準備に自分の部屋に戻り、“アルボンディガ”をさっそく辞書で調べました。「 えっ! こんな意味!! ・・ちょっと鏡を見て、・・・ま、いいか、今日もお世話になるし、これからも世話になるから。 」と思ったものです。
この私のニックネームになった“アルボンディガ”を一度聞いたスペイン人は二度と忘れません。 ( あの『カマロン』(有名な歌い手)も二度目に合ったときに、覚えていました。 )
以来、日本人の友達からも、“ ボンちゃん ”と呼ばれるようになったわけです。
PEPEとTAKEMORIさんに連れて行ってもらった「ペーニャ・フラメンコ」は地下にありました。 昔、アメリカの西部劇の撮影がスペインの南(アルメリア郊外の“ミニハリウッド”)で行われた時、よくインディアンの酋長役をやったという、カンタオール(フラメンコの歌い手)のラファエル・ロメ-ロが小さな部屋でマイク無しで歌い、ペリーコ(息子)のギターも、生で、目の前で聞けました。 スペイン人達は、歌の内容に耳を澄まして、食い入るように聞いていました。そして時々、掛け声を、『オーレー !』と小声でかけるのです。そして、微笑みながら、相槌を打っています。 ギターが歌を盛り上げ、ファルセータ(メロディー)の、なんともいえない“間”というか、音の“鳴き”を聞いてか、周りの人たちが『オおれー』と微笑み混じりの掛け声をかけていました。
歌の内容がさっぱりわからない私は、カンタオールの声を聞きながら、座って歌う彼の顔の表情や手振りを見て、そして、ペリーコの右手のギターに対するタッチや、ラスケアード(フラメンコ独特の「奏法」)、 左手のコードやポジションを見たりしていました。 ペリーコは“顔でギターを弾いている”かのようにファルセータ(メロディー)と顔の表情が一体だったのが印象的でした。
この「 ペーニャフラメンコ 」では、数ヵ月後、ギタリストの『エンリケ・デ・メルチョール』のギターソロも聞きました。その時、何と、彼の親父のギタリスト『メルチョール・デ・マルチェーナ』が息子のギターを聞きに来ていました。 エンリケの演奏中に、私たちの方を見た名匠に「おまえさんら、右手の爪が長いが、ギターやってんのかい?」とジェスチャーで聞かれ、友人と一緒に頭を縦に振って「はい」と答えました。 するとギターを弾いている息子の方を見て、右手でギターを弾く格好をして、同じ右手の手のひらを下の向け、その手のひらをゆっくり揺らし( 「息子の出来は、まあまあだ」の意。 )手振りで話してくれました。あの時の、メルチョール・デ・マルチェーナのダブルの背広姿がとても印象的でした。
[11回]