佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
72
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義 6

* スペインに行けるかな *

何回も美大を断られた私は、いつのまにか自分ではない、自分の中から本当に湧き出てくるものではない絵を書いている自分にいやになり、つまり受験の為の絵のお勉強は辞めることにしました。絵は今でも好きですが、当時美大へ行くことをあきらめ、 絵よりも音楽のほうが、ギターの左手の微妙な力で、又右手のタッチの違いで表現できる『音』のほうが、『色』より自分を表現しやすいし、自分にあっていると思ったことが、絵をしばらく止めることになった理由だと、自分に言い聞かせたのを覚えています。

とにもかくにも、正直なところ理屈抜きでギターのほうが好きだったのです。しかし、好きなことばかりしていたのでは、生活できませんし、周りを説得することもできないし、又自分も落ち着きません。とにかく人生の執行猶予の時間つまり、社会人になる前に何をして自分は生きられるかをじっくり考える時間と、好きなことをする時間、が必要でした。

『お父ちゃん、夜間やけど受かったわ、昼間働いて学費とこずかい稼いで夜大学行くわ。』『そうか』と親父、『それで、入学金を何日までに、払わなあかんのやけど?』、と言うと、親父が、『大変やな~ 頑張りや~』とさらっと言うのです。・・・『えっ!』・・・今からどうやって入学金稼ぐの? 短期のバイトで稼げるわけが無く、兄貴に借金。
・・・(いまだに返していません。すいません!兄貴。)
これで、向こう4年間もギターが弾けて、スペインへ行く準備が出来ると喜んだものです。

朝8時から1時までの5時間、「錦」の市場( 「京一屋」というお店です。)でバイトをして、午後ギターを弾いて、夕方大学へ、という生活が始まりました。 お金を貯めてスペインへ行くことが見えてきました。

・・・・・しかし、このような生活や、考え方が如何に“あまい”のかをスペインに来て教えられました。それもヒターノ(ジプシー)の5・6才の子供たちからです。

 多くのヒターノの子供たちは、この年頃から、自分の食い扶ちは自分で稼がねばならないのです。
(今では、まだまだ差別が残るなか、義務教育を受けられる子供達が増えました。)
 近頃は、ほとんど見かけませんが、マドリッドのソル広場(街の中心)では、二三人のヒターノの子供がギター(弦が一二本足らないのが普通でした)を弾き、「ルンバ」「タンゴ」「ブレリア」・・・を歌っていました。またセビージャにもいて、私は、「コンパス」(リズムの間の取り方)や「アイレ(雰囲気)」を勉強させてもらいました。 一曲終わると一人がお皿を持ってまわりチップを貰うのです。最後まで見ていると、集まったお金を皆で分けていました。
 
 そういえば、ドローレス・アグへ-タ(フラメンコの歌い手、マヌエル・アグヘ-タの娘)は7歳の時、親父に捨てられ、道ばたで生活していたと彼女から聞きました。
この話をした後、彼女は、『親としては~、・・・だが、カンタオール(歌い手)としては尊敬しているのよ。』と言い、歌っている親父の肖像画のそばで、私に話してくれた自分の子供の頃を、歌ってくれました。 ・・・・・・・・・・・・・・。

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フラメンコ談義・5

* ギターで飯が食えるか! *
・・・私が、パコ( パコ・デル・ガストール)に会う為にモロン(モロン・デ・ラ・フロンテーラ)に行った時、パコの弟のフアンがフォンタネロ(水道工事人)の仕事をし、パコも手伝っていました。 そう、こちらでは、仕事が無い時は出来ることはなんでもするのです。 そういえば、セビージャのペーニャ・フラメンコで会った、ホセと言う歌い手は、エル・コルテ・イングレス(スペインのデパート)に働いていると言っていたし(ソレアがうまかった)、レンフェ(国鉄)で働いていたぺぺはシギリージャがとてもうまく、『アルボンディガ、いいか、トカオール(ギタリスト)はな、ここではそうは弾かないんだよ、・・』と教えてくれたのが忘れられません。・・・当時「フラメンコを楽しむと言うことと、お金を稼いで生活することは違うんだな~」と思ったものです。・・・

高校三年の文化祭も終わり、ギターばかり弾いていた私も、皆と同じように自分の進路を決めなくてはならなくなり、さて、どうする?・・・・・・『ギターで飯が食えるか~!』
????・・「たいへんだな~」 『そしたら何をして生きていく!』????・・・
とにかく分からないので考える時間が・・と思っていると、担任の先生が、『あなたは就職するのですか? それとも進学するの?』・・・『美術の先生に進められたので、京都芸大を受験しようと思っています。』・・・といっている自分に、(ほんまかいな!何考えてんの?)と思う自分。・・・・

ギターで、それもフラメンコギターで生活していくことはとてもたいへんなのが高校生の自分でもわかり、かといってギターは続けたいし、・・・「学科は勉強しなかったので、実技でカバーできるかも?」「とにかく、授業料が安い公立の大学に入れば、周りも安心だし、自分も好きなギターが弾けるかな?」・・・と、当時は気楽に考えていました。

とにかく美大を受験することになり、京都芸大は、1500点満点で、合格点に、70点足らず、断られ、翌年、金沢美大は合格点に3点足らずに断られました。 しかし、金沢で受験の前の日に、“パコ デ ルシア”のコンサートがあるというポスターを見て、無理をして聴きに行きました。 おかげで、受験の石膏デッサンは2番、鉛筆淡彩は4番でした。つまり実技は上から3番(まぐれ)。しかし、面接で『何で学科をもっと勉強しなかったんですか?』 「あ! はい。」と答えている自分の頭の中には前日のパコ デ ルシアのギターが流れていました。

未だスペインへ行くことも考えず、アルバイトして、絵の教室に通い“ミロ”や“クレー”“カンデンスキー”に凝り、そして気分転換にギターを弾き、友達と酒を飲む、と言う浪人生活の中で、ギターソロの“サビカス”“ニーニョ リカルド”から“パコ デ ルシア”“セラニート”“マノロ サンルーカル”そして、“パコ デ ルシア”が伴奏しているフラメンコの歌い手、『カマロン』を聞き始めていました。

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フラメンコ談義4

フラメンコギターの王様・『サビーカス』

高校二年の春、4万5千円のフラメンコギターを手に入れた時は、本当にうれしくて毎晩寝る前には、ギターについた自分の指紋まできれいに拭いてケースに入れ、自分の枕もとに置いて寝ていました。朝、学校に行く前には必ずギターを見てから出かけました。

ラスケア‐ドも、どこででも練習したお陰で徐々に出来るようになり、始めに習った“セビジャーナス”も様になってきました。そして週一度のレッスンが楽しみで毎晩夜遅くまで弾いていました。寝る前はいつも、『サビーカス』を聴いていました。 そして持っているレコードの曲の楽譜を貰った時はうれしくて夢中になって練習しました。サビカスとそっくりそのまま弾けるわけは無いのですが、弾くことを目指しました。毎日毎日、うまくなっていく自分が、レコードのように弾けるようになっていく自分がうれしくて、他のことはどうでも良いと思っていました。

「君、ちょっと一緒に職員室まで来なさい。」と先生、『あっ!この前の反戦デモに参加したことかな?』、・・・「きみ、何か悩みでもあるのか?ずいぶん成績が落ちてるけど、物理Bがこのままでは落第やな~。」
・・・『先生、僕何も悩みなんか有りません。全然勉強しませんでしたから、あたりまえです、今ちょっと興味があることやってまして、時間かけたら誰でも出来る学校の勉強をやってる暇が無いんです。でも落第はいややから、物理、ちょと勉強します。』

・・・・高校二年の二学期の通知表には赤いボールペンで大きく“1”が光っていました。私は友達に『ほら見てみ、これ。 赤点というのは、本当に赤い1やからそういうのやな~。』『あほかおまえ!』・・と友人。

三学期は先輩から、「親切な物理B」という参考書を借りて、フラメンコギターの王様だと思っている“サビーカス”の大切な練習を少なくし、必死に勉強して、物理のテスト、クラス平均が32点(ぐらい)の時、私は78点、『ふ~ん、皆、でけへんかったんやな~』と自分の答案用紙を机の上に見えるようにおいたものです。

高校三年生になって、まわりは受験勉強。大学紛争、ベトナム戦争、70年安保、万博、・・・・楽しいクラブも辞めていくなか、私は友達とギター同好会を作り、文化祭の時、一年生と“サビーカス”の「ミロンガ」を二重奏。そして、「ファルーカ」「アラビアの夜明け」をソロで弾いたのを覚えています。

 未だフラメンコのカンテ〔歌〕も踊りも知りませんでした。 音楽の中のギター、その中でもフラメンコギターに、それも、“サビ‐カス”の『音楽』に引き込まれていきました。

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フラメンコ談義 3

* 右手の爪にマニキュア *

『お姉ちゃん、透明のマニキュアを買って来て、くれ・・・る ?』、 『何に使うの ? 』・・
・ ・『つめに塗るんや』『エ~!なんでまた ?・・オカマかいな、この子は!』・・・。
私がギターを始めたころ、まだ瞬間接着剤は無かったと思います。とにかく“ラスケア‐ド”を四六時中練習して、爪がいたみ、ギターの先生から聞いてマニキュアを塗るようになったのです。

『誰ですか? さっきからカラカラ・カラカラ音を出しているのは !』、と先生、・・それはもう授業中であろうが、市電の中であろうが練習していました。右手の小指から薬指、そして中指、人差し指を、握った状態から一つずつ均等にはじき出し、最後は、人差し指を戻した時も音を出し、同時に始めの握った状態に戻る。この繰り返しです。
つまり、五つの音の繰り返しです。力も音も間隔も均等でなければなりません。これが出来ないとフラメンコギターは弾けません。と言われ、とにかくどこでも練習しました。

今でもよく覚えていますが、通学の市電の中で「カラカラ、カラカラ」、とにかく、音が均等か、力も均等かを集中して自分は聞いているので他の人がどう思っていようがおかまいなしでした。しかし、私の前に座っているおじさんが、私の右手の爪を見、私の顔を見て不思議そうに思っている様子に気が付きました。その時、とっさに私は右手の爪が長いのでギターを弾くのが分かるだろうと思い、おじさんの目の前に出しました。するとこのオジサン・・『(いやらしく) ニヤ~!』・・・気持ちの悪いオジサンがオバサンに見えたのです。「えっ!!」・・・(オバサン、いや、おっさん、僕、オカマと違うでー!)。
 
今なら、男の子が眉毛を抜いたり、パックをしたり、耳に輪をつけたり、爪をピカピカに磨いたりで、多くの男がオカマっぽくなっていますから、マニキュアぐらいで変に思う人はいないでしょう? そして今ヨーロッパでは同性同士の結婚を認める国が増えてきていますし、私は沢山の『同性愛』のアーチストを知っています。・・・・・(スペインのオカマ談義はまた後で。)

ところで、今の日本では、“オカマ”も差別用語になったのでしょうか? 私は差別感などありませんし、個人差はあるにせよ、同じ「より良いもの」を追及する仲間でしたし、お互いの立場を認めた上では普通に付き合っていました。

 右手の爪には「マニキュア」から「液体ばんそうこう」を塗るようになり、そして「瞬間接着剤」へと、補強のために、十五年以上つけていました。

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フラメンコ談義 2

* サックスからフラメンコギター *
 
小学6年生のころ、6000円のギターを手に入れたあと、世の中、ビートルズから、フォークソング、ベトナム戦争、ビートルズ解散、70年安保、と移り変わる時代を私は、小学生から、中学生、ブラスバンドでアルトサックスをはじめ、「アメリカ海兵隊」の行進曲を運動会などで演奏し、そして、高校ではテナーサックスに変わり、学校の校歌以外は、すべてクラッシクとジャズのビッグバンドの曲を演奏して楽しんでいました。バンドの名前も、『シャープ アンド ナチュラル』。 

当時、町や大学では、色とりどりのヘルメットと、かく棒や火炎瓶に対し、装甲車に守られた重装備の黒い集団とが衝突していました。 今も世界のあちらこちらで、投石と火炎瓶に対して、戦車と重装備の武装集団が衝突しています。
 
高校のブラスバンドのクラブでは、アメリカの行進曲は一切演奏しないことにしました。それは、ベトナムの人達のことや、いやでも前線に送られる同世代のアメリカ人のことも考えたからです。生徒会(有志)として、戦争反対のデモもしました。
 無届でデモを強行した時、生徒会担当の先生が警察に届けてくれていたお陰で捕まりませんでした。上からは「デモ」をさせるなと言われていたはずなのに、デモの間中、生徒を警察から守ってくれていました。・・・・・・・・・・・( エライこの先生!!)

さて、こんな時代に私は『フラメンコ』と出会いました。それは、ビッグバンドの楽譜を探していた時です。 『フラメンコギター教則本』というのを何気なく見てびっくりしたのです。ラスケア‐ド(フラメンコギターのテクニック)を、32分音符で表わされた楽譜で、ほとんど真っ黒でした。これってどんな音の表現なのか想像もつきませんでした。
 早速レコードを探し、『サビカス』、『ニーニョ リカルド』・・・・・・

京都は、十字屋という楽器店の『西村健太郎・フラメンコギター教室』でフラメンコギターを習い始めました。 自分が夢中になれる何かを探していた時に出会い、フラメンコギターにのめり込んで行きました。ブラスバンドでジャズの「スイング」をサックスで楽しみ、家に帰ると勉強もせず、ギターを寝るまで弾いていました。 
 そして、学校までギターを持ち込み、昼休みや、放課後に練習していました。二十人弱で演奏するクラブのサックスより、ギターソロのフラメンコのほうが面白くなっていきました。 

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ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

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