フラメンコ談義 17
“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”
夏のアンダルシアは飛んでる鳥があまりにも暑いので、電線にとまって休もうとすると火傷して落ちて、車の屋根に落ちたら、焼き鳥になってしまいます。本当に、とりかえしがつきません。・・・・・
鯵の干物は30分で出来ますし、洗濯物は干し終わると、始めに干したものからとり入れるのです。本当にすぐ乾いてしまいます。
スペインでの最高気温は、コルドバとセビージャの間にある、『エシーハス』という町で、60度を記録したとか。 私自身、新聞、つまり日陰の百葉箱の中の温度が48度という日を経験しています。炎天下では、自動車のボンネットの上では目玉焼きができ、夕方の6時ごろは、55度は超えていたと思います。家の外には猫も歩いていません。部屋の中の何を触っても自分(体温)より熱いのです。 だから、シエスタ(昼寝)をするしかないのです。(子供の夏休みは3ヶ月間もあります。)
人々は、夏、野良で夜明けとともに働き、昼の1時ごろまで仕事をして家に帰り、よく冷えた“ガスパチョ”(オリーブ油とワインビネガ、パン、にんにく、塩、の入ったトマトをベースにした、夏の冷たい野菜スープ)を飲みながら、昼ご飯(2時~3時ごろ)を食べて、4時ごろから、夕方の8時か9時頃までシエスタ(昼寝)をして、夜中の2時か3時ごろまで夕涼みをしています。(昔は、朝までフィエスタ、フラメンコを楽しんでいたようです。)
アンダルシアの村や町では、夏、夕涼みを兼ねた野外に映画館ができます。折りたたみの木の椅子を並べ、‘ひまわり‘ や‘かぼちゃ’の種を食べたり、生ハムやチョリソ(サラミのような腸詰ソーセージ)とパン、そして。ビールや「夏の赤ワイン」(赤ワインを氷と少し甘い炭酸水で割ったもの)を飲みながら夜を楽しむのです。
私が初めてアンダルシアの町や村に行ったこの年(1979)、『ブルースリー』の映画がすごい人気でした。(映画は大体がアクション物で古い映画が上映されていました。)、 悪漢が主人公にやられると、ほとんどのスペイン人はスクリーンに向かって、大きく声援を送り、拍手して隣の人と喜び合うのです。・・・これは今も変わりません。
小さい町に行くと、昔、子供達に石を投げられた人がいたと聞きましたが、まだまだ昔の価値観が影響しているのでしょうか。 東洋人を見ると、『チーノ、チーノ』といって未だに馬鹿にする人がいます。
・・・コロンブスの時代、ヨーロッパ人(キリスト教徒)以外は、『猿と人間の間ではないか?』と、ヨーロッパでマジに議論されていたとか。・・・
後の「奴隷貿易」につながり、また、多くのヒターノ達も、ヒターノ(ジプシー)であるがゆえに、新大陸へのガレー船の舟漕ぎとして徴用(強制労働)されたようです。
・・・“ 私の息子が、船を漕ぐ奴隷として連れて行かれたのは私の罪。 ただ、ヒターノであるだけで、・・だとしたら、ヒターノである親の私の罪。・・”という歌があります。・・・
私は石を投げられませんでしたが、どんな町や村へ行っても子供達が寄ってきて、「チーノ、チニート !」と言われました。 だんだん寄ってきて、こちらが「オラ~ !」(英語のハローの意)というと、よく、『空手を知っているか?』『ブルースリーを知っているか?』と聞いてきました。私は、腕と手指を動かしながら、空手の準備体操のような真似をしながら、『ブルースリー か ? よく知っているよ、兄弟だもん !』といって、大きな声と手を使って『 チョンワ~ !!』というと、「チーノ」といって馬鹿にしたから、仕返しされると思ったのか、子供は走って逃げていきました。
私が始めて“フラメンコ・フェスティバル”- [カンテ(フラメンコの歌)フェスティバル] - を見たのは、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」というカディスの隣の港町です。
・・・カディスでは今も「造船」が大きな産業ですが、昔(16世紀)、ガレー船が造られたのもこのあたりのようです。 イギリスの海賊から上手く逃げて、スペインに金や銀を積んで帰ってきた船なども荷を降ろした後、この「エル・プエルト・デ・サンタマリア」あたりでも停泊していたことでしょう。
当時のイギリスでの、「エリザベス女王一世」と「(サー・)ウォルター・ローリー」(海賊)の有名な話によりますと、この海賊を女王は貴族に召し上げたそうです。(スペイン船を襲って金や銀をイギリスに持ち込んだ功績(?)により、「サー(Sir--卿)」になれたのです。)
この海賊がイギリス艦隊(海軍)の司令長官に出世して、後にスペイン無敵艦隊をやっつけてしまいます。(1588)・・・・
「エル・プエルト・デ・サンタマリア」といえば、“カマロン”が有名になるまで、最も人気があったカンタオールの“パンセキート”の故郷です。この街のすぐ近くに、‘プエルト・レアル’や、カマロンの‘サン・フェルナンド’の町があり、また、‘へレス’の町もそんなに遠くありません。
港の近くの野外映画館に、舞台や屋台のBAR(バル)が仮設されたというところがフェスティバル会場でした。日が暮れ始めた9時半頃から人々が集り、「フラメンコ(カンテ)のお祭」が始まりました。
『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)は、夜の10時ごろから夜中の3時ごろまで、カンタオールが7人、踊りが“マヌエラ・カラスコ”、最後は、‘パンセキート’が息子のギター伴奏で延々と歌っていました。
始めに、‘チケテテ’(今は、流行歌を歌っています。)、‘ランカピーノ’、‘フォスフォリート’、‘マヌエラ・カラスコ’(踊り)、‘トゥロネーロ’、‘カマロン’、
‘レブリハーノ’、‘パンセキート’。一人のカンタオール(歌い手)が40分ぐらい歌います。ギターは、‘エル・ルビオ’(マヌエル・ドミンゲス)、‘エンリケ・デ・メルチョール’、‘ホァキン・アマドール’、‘トマティート’、・・。
・・・今、この時の実況テープ(90分テープが3本です。)を久しぶりに聞きながら当時を思い出しています。・・・・・・・
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