佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
72
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義
第21回

ブレリアのコンパス(リズム)は「6拍」の繰り返し~?!!

“ エンリケ エル コッホ ”の舞踊教室

「トゥリアーナ」のカンテフェスティバルが終わり、このフェスティバルで知り合った日本人と一緒に、揚げたての「チュロス」を食べに行くことになり、トゥリアーナ橋を渡ろうとしたとき、目の前に、グアダルキビル川と旧市街、「ヒラルダ(大聖堂の尖塔)」、「黄金の塔」とスペイン広場の二つの塔、遠くの地平線、それら全てをつつみこむ雄大な朝焼けが広がり、太陽と供に東からゆっくりやって来る、やさしい光とさわやかな風・・・、おもわず深呼吸をし、その心地よい光と風の音を聞きながら、橋の上でしばらく立ち止まっていました。

およそ8時間もフラメンコにどっぷり浸かり、ほとんど歌詞の内容がわからないカンテを聴き続けて疲れきっていた全身を、今まで見たことのないスケールの朝焼けと、昇り始めた太陽が癒してくれているようでした。

私たちは、橋を渡り、闘牛場の横を通り、「ヒラルダ」を目指して歩き、そして、「大聖堂」から「アルカサール」の横を通り、ジャスミンの香りが漂うサンタ・クルス街にはいり、ムリーリョ公園まで、静かな夜明けの街に響く足音を聞きながら歩いて行きました。大きなゴムの木のそばに来た時、突然、おおきく聞こえてきた小鳥の“さえずり”に、はっと我に返りました。直径2メートルはある大きな木を見上げると、不気味なぐらい多くの鳥の黒い影が、鳴きながら動いていました。

広い通りを渡ると、「ウトレラ」や「モロン」、「ヘレス」などの町へ行く時のバスターミナルとレンフェ(鉄道)のカディス駅です。
『チュロスの店はもうすぐだよ。』と聞くと急にお腹がへってきました。

駅の横にあった屋台の揚げたての「チュロス」はとても美味しく、他では食べたことがありませんでした。この屋台で使っている油は100%「ラード」と言っていました。( 最近は「ラード」は身体に良くないといって、「ひまわりの油」を使う店が多くなりましたが、あの味が忘れられません。)

この時、一緒に「チュロス」を食べた日本人は、ギタリストで、もう何年もセビージャに住んでいる「マノ」さんと、「チャンケ」さんという人でした。
 彼らには、その後、どのようにスペイン人と付き合い、生活の中にあるフラメンコと出会うかや、それぞれのフラメンコに対する追求の仕方や自分自身とのかかわり方などの話を聞かしてもらいました。

二人とも、私に「アルボンディガ」というニックネームを付けた『ぺぺ』を良く知っていて、身近に感じてくれたのか、会うといろんな話をしてくれました。

・・・『この前、ヘレスで、小さなBAR(バル)から「カンテ」が聞こえてくるから入ったら、あの、「ボリ―コ」( EL Borrico ---ヘレスのカンタオール)だったんだよ!  知ってる? ボンちゃん、・・・生の声が聞けたんだ!! 』・・・『「ボリーコ」ですか?・・・知りません。』

『・・・ん、 踊り手の「エンリケ・コッホ」は? 今レッスンやっているから、行けば、弾かしてくれるよ。』・・・と、「チャンケ」さんに教えてもらい、早速、エンリケ・コッホのレッスン場に通いました。

 近所の子供達も通うレッスン場は住宅街にあり、ふだんの生活の中で、フラメンコを習うことは、ここでは自然なことであり、「さすがセビージャだな~」と、そのセビージャに自分が今いることを嬉しく思いました。

Enrique el Cojo ( エンリケ エル コッホ )は、セビージャの名高い舞踊教師で、有名なプロの踊り手も習った事を話題にします。また、彼のバイレは“フラメンコの神髄を伝える踊り”といわれています。

・・・『日本からフラメンコギターの勉強に来たのですが、あなたのクラスで弾かせてもらえますか ?』 ・・・と、なんとか話せ、『いいよ、いいよ、』と言いながら椅子を用意してくれる彼を見て、足が悪いことに気が付きました。

中学生位の女の子がはじめレッスンを受け、次にプロの踊り手(女性)が、腕と手、そして、指の動きを主に質問しながら「ソレア」と「ブレリア」のコンパス(フラメンコのリズム)で、短い振りをいくつも教えてもらっていました。
    
私は、ほとんどギターを弾かず、エンリケの身体全体から「ドー~ン」と伝わってくる『何か』に魅せられて椅子に座っていました。彼の「目の動き」にも、「指の先」にも、「肩の動き」も、コンパス(リズム)にピタッーと合っているのです。

心の動きから、呼吸の揺れ、そして足へ、腕へ、手へ、指に、最後は、目でコンパスを〆るのです。・・・彼の息ずかいが聞こえ、目の表情から、身体全体から、感性と思索の表現の「何か」が伝わってくるのです。
 サパテアード(踊りの足の技)は逆にその表現の邪魔になるかのように、・・・機械的なテクニックが何なの? それより大切なものがあるやろ! “ フラメンコ ”が。・・・・と、凄い心のこもった、気持ちの入ったレッスンを受ける側も、強烈なエンリケの「アイレ」(フラメンコの雰囲気)に引っ張ってもらいながら「大切な何か」を学んでいけるようです。

私は、彼の強烈な“アイレ”に驚き、また、コンパスにも驚きました。

「なに?これ!~、ブレリアのコンパスは12拍子の繰り返しと違うのか!」「6泊の繰り返しが、何でこんなに続いていくの?」とビックリしました。そのエンリケの『半分のコンパスの振り(踊り)』が具体的な何かを語っているようなのです。

たとえば、こんな事を、・・・・『仕事も金も無いって?』(6泊)・『世の中が信じられないって!』(6泊)、『お前さんに言うけど、いいか、』(6泊)、『パンが欲しいという我が子に、石を与える親がいるか?』(6泊)・『魚が欲しいという子に、蛇を与える親がいるかよ!?』
(6泊)・・・『まじめにやってりゃ~上手くいくっていう事を信じろってよ!』(6拍)・・・と『6泊の踊り』が続き、最後に『だって、神さんはよ~、俺らの親だろ~が!!』と言って踊りをキメテ(〆て)終わる。・・・というように。

Enrique el Cojo ( エンリケ エル コッホ )は、フラメンコのカンテ・ホンド(深い歌)をも、自分の心と身体全体の動きで表現できる人であると同時に、とても、やさしく、面白い“おっちゃん”でした。

拍手[13回]

フラメンコ談義 第20回 

* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *

「ラ・タティー」(踊り手)の表現の豊かさには、ビックリしました。「ソレア」が歌われている時の彼女は、綺麗な衣装を着た19世紀頃の婦人(マハ)のように思え、ジャマーダ(〆、区切り。新しい事をはじめる前の一つの終わり。)でカンテ(歌)をかっこよく盛り上げて終わり、「エスコビージャ(足のリズム)」が始まります。

踊り手の感性の豊かさと、足の技の見せ所でもあるこの「エスコビージャ」で、タティーの感情の押さえからか、テンポもゆっくり始まり、徐々に盛り上がっていく変化、また、どうしたのか、音が静かになり、テンポも遅くなっていき、悩みを抱えているかのような振りが続き止まるかと思うと、徐々に、考え方を変えたのか、落ち込んでいた気持ちをだんだん晴らすかのように、テンポが上がり、音も強く軽やかになり、胸を張って踊るのです。 時にはスカートを持ち上げ、また、腰を色っぽく動かしたり、・・・

・・・・『あんな男の一人や二人、ドウ~ってことないわ! 私の方からバイバイしてあげるわ! フン ! そこのお兄さん、私の綺麗な足見てんの~? それとも私の身体の曲線美 ? 結構いい女でしょ! わたし~。 声をかけてもいいわよ、一緒にお酒飲まない!!』と、言っているかのように観えたのです。

・・・・「えっ!~?!! ぼく~、そんなつもりで見ていたのでは、えーと~、まだ自信がありませんので、次回にします~。」と、オクテだった私はこんな事を勝手に思って、一人で赤くなったことを思い出します。

タティーの踊りの後、ランカピーノが歌うまで、しばらく、フェスティバルも休憩。ワインを飲んだり、つまみを食べたり、わいわいがやがや。・・・

 『オラ~! ササ(佐々木の略)! コモエスタ(・・赤坂は言いません)調子はどう? やっぱり観に来てたんか。』と知り合いになったトゥリアーナのおばちゃんが声をかけてきました。

このおばちゃんの家に昔、日本人がホームステイしていたとかで、以前、話しかけられ、家におじゃましたことがあります。
その時、家には中学生のひとり息子が食事をしていました。おばちゃんは、とっくに食べ終わったのに、息子は、もりもりまだ食べていると言うのです。

『この子は、チュレタ・デ・セルド(骨付きの豚肉のステーキ)を7枚も食べんのよ!まったく~』と言いながら、自慢の、背の高い息子を紹介してくれました。息子は食べ終わるとテーブルのものを台所へ持っていき、外へ遊びに行きました。

『日本はスペインより何もかもが進んでいると聞いたんやけど~、街はどうなってるのや?』・・・『そら~もう、自動販売機にお金を入れたら、何でも出てくるし、車は喋るし、道は歩かんかて、道が動くし~、地下鉄があり、地下街には何でも売っているし、人は多いけど~、シエスタ(昼寝)は無いよ、また、美味しくて安いワインも無いな~、・・・・』

 『ほんまかいな !?』と、おばちゃんが驚いています。(「ちょっとおおげさに言い過ぎたな~」と思いながら、おばちゃんの話が続きます。)
『だいぶ前に、あては旦那を亡くして苦労してんのんやけど~、お金を機会に入れたら~、男も出てくるかな~?』・・・『おばちゃん、それは無理やわ !』・・・
『やっぱりあかんか~、ワッハハ~』・・・・。

このおばちゃんは、路線バスに乗ってポルトガルとの国境を越え、シーツやテーブルセット、綿のタオル、麻の布、コーヒー、等を買出しして(当時、これらの物はスペインよりポルトガルの方が安かったのです。)、 その日にセビージャに戻り、毎日家々を回って行商して、無くなったらまた買出しに行くのです。
『今、息子に小遣いもやれない時が~、腰は痛いし~、でも、もうじき楽になるやろから、 ビールもう1本飲もか?』・・・・『------ん~。』・・・・・

・・・・あれは、私がまだ小学生の3年生ぐらいの頃でした。隣町内の、大八車を牽いて八百屋の行商をして三人の息子を養っているおじさんが、家に来て私の親父に何か泣きながら話して、帰っていきました。
おやじが『あした、お前の小学校へ行かなあかんわ!』・・私のおふくろが『なんでどす?』・・『お金が無いから、子供に給食代を持たせてやれなかったのに、先生が「忘れたらアカンや無いか!」と子供を怒って、黒板に名前を書いたと言うんや!』・・『そんな!かわいそうなこと~、先生もせっしょやな~、子供にそんなこと!! あてもその先生に、もんく言いたいわ! 』・・・

翌日、私と親父は一緒に家を出て、学校に行きました。親父は職員室に「殴りこみ」、いいえ、抗議するために入っていきました。
家を出る前におふくろが、『うちの家にもお金がなにも無いのに、うちのお父ちゃんは他人の事は親身になって、よう動かはんな~、お金にならへんのに。ア~あ、また、手間賃が入らへんがな~!』・・・と言っていたのを、親父のうしろ姿を見ながら思い出しました。 ・・・・・

このトゥリアーナのおばちゃんには、何度も食事をご馳走になりました。ある日、私のおふくろのことを話しました。

・・・「親父の知り合いの「若い人」( 親父が言うには、「あいつは今、地下にもぐっとおんにゃ」、「モグラかいな?」「そおや、えらいやっちゃで。」「・・?」)が来ると、おふくろは卵の入った焼き飯を作ってあげていました。われわれ家族のには卵は入っていなかったのに。・・・

私が小学生の頃は、「鍵っ子」で、仕事から帰ってくるおふくろの、家に近づく足音がどんなに待ちどうしかったか。・・・
 
おふくろの休みの日、外で遊んで帰ってきて、家の玄関を開けるとき「コトコト、トントントン~」と聞こえる、まな板の音がどんなに嬉しかったか。」・・・

私は、『・・・、母親に親孝行したいんだ、おばちゃんを見て、今また、思っているんだ。』と、下手なスペイン語で私の気持ちをなんとか伝えました。すると、おばちゃんは私を抱き寄せ、両側の頬にキスをし、『グラシアス、 ササ、お前の言いたいことは、よーわかったわ、おおきに、ありがとう!』

なんとか、「おばちゃんの息子は、きっと親孝行してくれるよ」ということが伝わったようでよかったと思ったものです。・・・・

フェスティバルが再び始まり、歌い手も、ランカピーノ、フアニート・ビジャール、カマロン、レブリハーノ、エル・アレネロ、ペドロ・ペーニャ、チケテテ、そして、ファル-コの踊り、・・・と、延々と続き、終わった時は、空がもう明るくなってきていました。
 

拍手[11回]

フラメンコ談義・19

“ 夏のフラメンコ・フェスティバル (3) 

『これが“ ドゥエンデ ”かな !?』

ウトレラのカンテ・フェスティバル“XXIII POTAJE GITANO”(1979―6-23)での、テレモートの歌とモラオのギター、・・・「何か」がのりうつったような会場を包む異様な雰囲気に、一瞬、肌寒くて、ゾ~とした私は、回りの人々と共に違った次元にでも移ったかのように感じ、「シギリージャ」という『天の浮舟』にでも乗って現実を少し離れたような時を経験したのが忘れられません。

私の右側のワインをくれた、おっちゃんとおばちゃん、左側の、鳥肌の出た腕をさすっているおじいちゃん、そして、まわりのスペイン人達が、昔からいろんな事がお互いにあったのを知っている親戚のように思えたのが不思議でした。

『おっちゃん、おばちゃん、ワインおおきに! ほな、また。』『アディオース!さいなら!、おじいちゃん!』・・・おっちゃんも、おじいちゃんも握手しながら私の肩をぽんぽんたたいて、・・(今日はよかったな~、ええ歌聞けたな~、また合おな~!)・・・と、言っているようでした。

 このとき以来、自分はまだフラメンコを知らないから、とか、スペイン人じゃなく日本人だから、とか、アンダルシアに生まれたわけではないから、・・・・フラメンコはまだわからない、・・・なんて考えないで、素直に同じ人間として感じようと思うようになりました。

テレモートの後、歌い手は、フアニート・ビジャール、ペパ・デ・ウトレラ、チャノ・ロバート、カマロンとつづき、そして、夜中の1時半ごろから、ベルナルダとフェルナンダを初めて身近で聞きました。そして最後は皆が出てきて
フィナーレ、・・・終わったのは夜中の3時が過ぎていました。昼間と違ってとても寒い夜中の街を、セビージャ行きの一番バスが出るターミナルへと歩きました。

ウトレラのフェスティバル“POTAJE”からトゥリアーナに帰って、ギターも弾かず、録音したテープをよく聞きました。あの時のテレモートの『シギリージャ』、・・・「これが、ひょっとしたら、“DUENDES(ドゥエンデ)”(魔性をおびた魅力)かも~?、 !! 」と思いました。

歌とギターだけではない、会場のあらゆる音が入っているテープを聞きながら、目に涙を浮かべ、鳥肌の出た腕をさすりながら何度も一人でうなずいている隣にいた「おじいちゃん」の姿がうかびました。・・・・・

『II Festival de Cante TRIANA “ PASANDO EL PUENTE”』 というフェスティバルが“POTAJE”の6日後にありました。(1979-6-29)

なかなか味のあるこのフェスティバルのポスターがどこにでも貼ってあり、とても楽しみにしていました。当日はトゥリアーナの人が全員集ったのではないかと思うぐらいの人が会場にあふれていました。

はじめに、チャノ・ロバートが、エル・ルビオのギターで、「ソレア」と「アレグリアス」を歌い、次に、パコ・タラントがパコ・セペロのギターで、「ソレア」と「ブレリア」
(私が買ったばかりのレコードにある曲でした。)

 次に歌ったのは有名なフォスフォリートとギターはエンリケ・デ・メルチョ―ルです。エンリケのギターソロをマドリッドで聞いた時に、彼の親父さんのメルチョ―ル・デ・マルチェーナと逢えたのを思い出しました。

フォスフォリートが挨拶し、エンリケが「ソレア」を弾き始めました。歌い始めて、しばらくすると、『エンリケ! も~ちょっとゆっくりと弾かんかいな!』
と野次が飛びました。・・・こっちは録音しているので、まわりのとにかくうるさい事には腹が立っていたところでした。・・・しかし後でこのテープを聞いたのですが、えらい早い「ソレア」で驚きました。 「ソレア」の後、「タラント」と「アレグリアス」でした。

次に、ラ・タティーが「ソレア」を踊り、彼女のサパテアード(足のリズム)に圧倒され、コンパス(リズム)についていくのが大変でした。
 カンタオール(歌い手)が歌っている時の歌振りに、なんともいえないタティーの、歌の内容を聞きながら抑えている感情が(気持ちが)伝わってきました。その抑えていたものが、歌が終わりかける時にその歌をもりあげるかのようにテンポを徐々に上げ、「ジャマーダ」で爆発したかのように〆めるのです。その止まった瞬間、『オ~レー!』と声がかかりました。(「ジャマーダ」は、止まる前の合図)

タティーの踊りを見ていて、テンポは踊り手がリードするんだという事に気が付きました。当然、カンテ(歌)は歌い手に委ね、彼女がよく聞いているのが判りました。歌い手の歌い節が盛り上がっていき、叫びに変わるころ、そのカンテを、歌い手を、盛り上げるというか、カンテと踊りで、より大きな感動にもっていくために、テンポを上げ、キメているんだな~とわかりました。 踊りが止まった瞬間、肩で息をするタティーが『今のキメ(〆)方はどう~?、いいでしょ!?』と身体全体で聞いているかのようです。会場の人々は間をおかずに『オ~レー』と答え、この後、彼女の粋な踊りの振りの一つ一つに歓声が飛び、舞台と観客とが一つになり、より大きな「ノリ」が生まれていくのです。

小柄なタティーがだんだん大きく見えてきました。あたかも、彼女の今までの人生を「踊りのソレア」で表現しているかのようでした。・・・・・・・・・

拍手[14回]

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フラメンコ談義 18

*夏のフラメンコ・フェスティバル 2 *

「プエルト デ サンタ マリア」という港町で初めてフラメンコの「カンテ・フェスティバル」を体験し、アンダルシアの人々がフラメンコをどのように楽しむのかを観て、また一歩、フラメンコに近づけたと思いました。

レコードでしか聞いたことがない有名なカンタオール(フラメンコの歌い手)達を、実際に見て、歌を聞いて、土地の人々と一体となって、『オレー!』という歓声の中で行われるフラメンコの歌のフェスティバルに、正直に言って、戸惑い、圧倒され、何も食べずに、ただただ録音することに気をとられ、楽しむ余裕はありませんでした。
 マドリッドの「タブラオ」や劇場で観たフラメンコとはちがったものを感じました。ここでは、舞台の上のアーティストが主役ではなく、その場にいた全ての人が共有する“何か”が主人公なんだなと思いました。

 夜空の下で、ワインやいろんな食べ物のにおいが漂う中、幼児から子供、年頃の若い男女、おとうちゃん、おかあちゃん、葉巻をくわえたおじいちゃん、
エプロンを着けたままのおばあちゃん、・・・みんなが『オッレー!』『おーれ~!』と歓声を飛ばし、皆がひとつになっている雰囲気のなかで、いまひとつ、周りに溶け込めない自分に気が付いていました。

セビージャにもどり、トゥリアーナ(地区)を歩き回って、人々の生活を見るのがとても興味深く、顔見知りのスペイン人を見ると「オラ~!」と話しかけ、親しくなろうとしました。
「バル」(BAR)も「タパス」(小皿のつまみ)の美味しい店を何軒か選び、毎日、シエスタ(昼寝)の後、飲みに行きました。だいたい同じ時間に行くと、いつも同じ、おっさんや、粋なお兄ちゃん(常にアイロンのかかったワイシャツとズボン、長髪をくしでオールバックにとかし、革靴を素足で履いていた。)に会えました。

 ある「バル」では、「フィノ」(辛口のシェリー酒)を皆が飲んでいるので、私も飲みながらその場の雰囲気を楽しんでいました。ラジオからは、何処かの「カンテ・フェスティバル」の実況録音が流れています。
サンチョ・パンサのようなお腹をしたおっさん達は、『オッレー !』と声をかけたり、カンタオール(歌い手)の「詩」の話や、「歌い節」について話している様子で、その話し方が、五七調の歌でも聞いているような心地よい響きで、本当に詩の朗読でもしているようでした。
・・・ことばがもっとわかればな~、スペイン語ができれば話の中に入れるのにと思いながら、皆の様子を見ながら「バル」のカウンターの隅で飲んでいました。

『 XXIII POTAJE GITANO ― UTRERA 』 (1979年6月23日)
というフェスティバルを観に、セビージャから、30キロほど南東にある町、「ウトレラ」に行きました。 町にバスで着いて、野外のフェスティバル会場の場所を人に聞いて行ってみると、町の郊外に出てしまいました。また、町に戻り探していると、さっき教えてくれた兄ちゃんが、こちらを向いて笑っています。
・・・その時は腹が立ちましたが、スペイン人に慣れてきた頃、わかったのですが、ただ、知らないということが、スペイン人は言えないだけで、別に悪気は無いということです(?)。 また、スペイン人は周りにスペイン人が居ても、我々外人に道を聞いてきます。そんな時、私はわかりやすく正確に教えてあげますし、知らなければ知らないと正直に伝えます。・・・

夕方の、8時半頃、やっと見つけた野外会場に入り、録音が上手くできそうな場所に席を取り、座っていると、まわりのスペイン人が美味しそうな料理を手に持っているのです。うらやましそうに見ていたのが通じたのか、『これ、タダやで~、早よう行って貰ってこんかいナ~!』と教えてくれたのです。

「ポターヘ ヒターノ」という料理で、「ジプシー風のポタージュ」というか、豆やジャガイモ、にんじん、たまねぎ、チョリソ(ソーセージ)、皮の付いたままのにんにく、・・・とにかく、いろんなものが入ったもので、なかなか美味しい料理でした。木のスプーンも付いていて、かめないものを出しながら(腸詰の紐や皮、にんにくの皮など。)食べました。

この料理の名前の「POTAJE GITANO」が、この町・「ウトレラ」のフラメンコ・フェスティバルの名前なんだと食べながら気が付きました。 (なんか飲みたいな~)と思っていると、隣のおっちゃんとおばちゃんが、皮袋に入った赤ワインをくれました。
皮袋を押さえるとワインが細く飛び出し、それをすばやく口にうまく入れるというのですが、なかなか難しくアゴや首にかかってしまいます。まわりのスペイン人がお手本を見せてくれるのですが、どうも上手くいきません。

食べたり飲んだりしていると、舞台で若いギタリスト二人が、パコ デ ルシアのギター曲「エントレ ドス アグア」を弾いていました。演奏が終わると、司会者が出てきて挨拶し、出演するアーティストを紹介して、カンテ・フェスティバルが始まりました。

はじめのカンタオール(フラメンコの歌い手)は、シェリー酒で有名な町「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ」の『フェルナンド・テレモート』 、ギターは、『マヌエル・モラオ』です。
 若い頃は踊り手だったとは想像もつかない巨漢の「テレモート」が出てきて、椅子に座り、「仁王」(金剛力士)さまのような大きな目で、少し周りを見てから、挨拶をはじめました。
『・・私は、この村で歌えるのが光栄~です。・・・え~、フラメンコのカンテを愛する村と神が~・・・』と話していると、『話はええから、はよ歌え~!』と野次が飛びました。・・『もう、ちょと、待ってくれや~!?・・(少し怒った顔で、ブツブツ)・・せっかく、ちゃんと、なれへん挨拶してんのに!・・』・・・会場から大きな笑い。・・・

挨拶を続ける「テレモート」、『この村は、ほんまに、ええ村や、カンテをわかっているし、うまい歌い手も居るし~・・・そして~、私の村もそうやけど!。・・・ひとつ言わしてもらうで~、・・ウトレラ、万歳!、ヘレス、万歳!』・・・『これでOKやろ~?!』・・・会場から拍手。
『まづは「ソレアー」から歌いまスァ!』・・・

「モラオ」のギターと共に延々と15分の「ソレア」を聞きました。途中なぜか「花火」が何回もうちあげられました。その花火の音がコンパス(フラメンコのリズム)に「ピタッー」と入っていたというわけではないのに、みんな花火なんかに惑わされないで、「ソレア」をジックリ聞いています。

歌が終わると、何度となく『オッレー~!』の歓声があがりました。 
そして、周りの人々は、またワインを飲んだり、つまみを食べたり、隣の人と「テレモート」の歌について、興奮してしゃべったり、・・・再び会場が騒がしくなりました。・・・舞台では「テレモート」が汗を拭き、「フィノ」を飲んでいます。

そんな中、ギターの「モラオ」が『シギリージャ』を弾きはじめると、ざわめいていた会場は「シーン」となり、しばらく聞いていると、私にも『ガーン!』となんともいえない雰囲気が伝わってきました。
そして、テレモートが歌い始めると、さっきまで、一緒に食べたり飲んだりして騒いでいた、隣のおっちゃんや、おばちゃんをはじめ、全ての人が異様は雰囲気に包まれていく変化を感じました。 会場の雰囲気が徐々に「 ジーン~ 」と重くなり、人々は下を向いて、「テレモート」のカンテと「モラオ」のギターに引き込まれていきます。・・・カンテの歌詞の内容がわからない私は、はじめ、いったいどうしたのかわかりませんでした。しかし、なんともいえない会場に漂う“ 気 ”を身体で感じました。

歌が終わると、すごい拍手と歓声が起こりました。隣のおじいちゃんは、私に腕を見せ、『見てみ~ ほれ! 鳥肌がまだ消えへん~!』と言いながら一人で何度もうなずき、目は涙で潤んでいました。・・・・・・

拍手[10回]

フラメンコ談義 17

“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”

夏のアンダルシアは飛んでる鳥があまりにも暑いので、電線にとまって休もうとすると火傷して落ちて、車の屋根に落ちたら、焼き鳥になってしまいます。本当に、とりかえしがつきません。・・・・・
 鯵の干物は30分で出来ますし、洗濯物は干し終わると、始めに干したものからとり入れるのです。本当にすぐ乾いてしまいます。

スペインでの最高気温は、コルドバとセビージャの間にある、『エシーハス』という町で、60度を記録したとか。 私自身、新聞、つまり日陰の百葉箱の中の温度が48度という日を経験しています。炎天下では、自動車のボンネットの上では目玉焼きができ、夕方の6時ごろは、55度は超えていたと思います。家の外には猫も歩いていません。部屋の中の何を触っても自分(体温)より熱いのです。 だから、シエスタ(昼寝)をするしかないのです。(子供の夏休みは3ヶ月間もあります。)

人々は、夏、野良で夜明けとともに働き、昼の1時ごろまで仕事をして家に帰り、よく冷えた“ガスパチョ”(オリーブ油とワインビネガ、パン、にんにく、塩、の入ったトマトをベースにした、夏の冷たい野菜スープ)を飲みながら、昼ご飯(2時~3時ごろ)を食べて、4時ごろから、夕方の8時か9時頃までシエスタ(昼寝)をして、夜中の2時か3時ごろまで夕涼みをしています。(昔は、朝までフィエスタ、フラメンコを楽しんでいたようです。)

アンダルシアの村や町では、夏、夕涼みを兼ねた野外に映画館ができます。折りたたみの木の椅子を並べ、‘ひまわり‘ や‘かぼちゃ’の種を食べたり、生ハムやチョリソ(サラミのような腸詰ソーセージ)とパン、そして。ビールや「夏の赤ワイン」(赤ワインを氷と少し甘い炭酸水で割ったもの)を飲みながら夜を楽しむのです。

私が初めてアンダルシアの町や村に行ったこの年(1979)、『ブルースリー』の映画がすごい人気でした。(映画は大体がアクション物で古い映画が上映されていました。)、 悪漢が主人公にやられると、ほとんどのスペイン人はスクリーンに向かって、大きく声援を送り、拍手して隣の人と喜び合うのです。・・・これは今も変わりません。

 小さい町に行くと、昔、子供達に石を投げられた人がいたと聞きましたが、まだまだ昔の価値観が影響しているのでしょうか。 東洋人を見ると、『チーノ、チーノ』といって未だに馬鹿にする人がいます。

・・・コロンブスの時代、ヨーロッパ人(キリスト教徒)以外は、『猿と人間の間ではないか?』と、ヨーロッパでマジに議論されていたとか。・・・

後の「奴隷貿易」につながり、また、多くのヒターノ達も、ヒターノ(ジプシー)であるがゆえに、新大陸へのガレー船の舟漕ぎとして徴用(強制労働)されたようです。

・・・“ 私の息子が、船を漕ぐ奴隷として連れて行かれたのは私の罪。 ただ、ヒターノであるだけで、・・だとしたら、ヒターノである親の私の罪。・・”という歌があります。・・・

 私は石を投げられませんでしたが、どんな町や村へ行っても子供達が寄ってきて、「チーノ、チニート !」と言われました。 だんだん寄ってきて、こちらが「オラ~ !」(英語のハローの意)というと、よく、『空手を知っているか?』『ブルースリーを知っているか?』と聞いてきました。私は、腕と手指を動かしながら、空手の準備体操のような真似をしながら、『ブルースリー か ? よく知っているよ、兄弟だもん !』といって、大きな声と手を使って『 チョンワ~ !!』というと、「チーノ」といって馬鹿にしたから、仕返しされると思ったのか、子供は走って逃げていきました。

私が始めて“フラメンコ・フェスティバル”- [カンテ(フラメンコの歌)フェスティバル] - を見たのは、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」というカディスの隣の港町です。
・・・カディスでは今も「造船」が大きな産業ですが、昔(16世紀)、ガレー船が造られたのもこのあたりのようです。 イギリスの海賊から上手く逃げて、スペインに金や銀を積んで帰ってきた船なども荷を降ろした後、この「エル・プエルト・デ・サンタマリア」あたりでも停泊していたことでしょう。

当時のイギリスでの、「エリザベス女王一世」と「(サー・)ウォルター・ローリー」(海賊)の有名な話によりますと、この海賊を女王は貴族に召し上げたそうです。(スペイン船を襲って金や銀をイギリスに持ち込んだ功績(?)により、「サー(Sir--卿)」になれたのです。) 
 この海賊がイギリス艦隊(海軍)の司令長官に出世して、後にスペイン無敵艦隊をやっつけてしまいます。(1588)・・・・

「エル・プエルト・デ・サンタマリア」といえば、“カマロン”が有名になるまで、最も人気があったカンタオールの“パンセキート”の故郷です。この街のすぐ近くに、‘プエルト・レアル’や、カマロンの‘サン・フェルナンド’の町があり、また、‘へレス’の町もそんなに遠くありません。

港の近くの野外映画館に、舞台や屋台のBAR(バル)が仮設されたというところがフェスティバル会場でした。日が暮れ始めた9時半頃から人々が集り、「フラメンコ(カンテ)のお祭」が始まりました。

『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)は、夜の10時ごろから夜中の3時ごろまで、カンタオールが7人、踊りが“マヌエラ・カラスコ”、最後は、‘パンセキート’が息子のギター伴奏で延々と歌っていました。

始めに、‘チケテテ’(今は、流行歌を歌っています。)、‘ランカピーノ’、‘フォスフォリート’、‘マヌエラ・カラスコ’(踊り)、‘トゥロネーロ’、‘カマロン’、
‘レブリハーノ’、‘パンセキート’。一人のカンタオール(歌い手)が40分ぐらい歌います。ギターは、‘エル・ルビオ’(マヌエル・ドミンゲス)、‘エンリケ・デ・メルチョール’、‘ホァキン・アマドール’、‘トマティート’、・・。

・・・今、この時の実況テープ(90分テープが3本です。)を久しぶりに聞きながら当時を思い出しています。・・・・・・・

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ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

Copyright: 佐々木郁夫。。All Rights Reserved.

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