佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
72
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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『フラメンコ』は、人の幸せな笑顔を求める事が、

       自分の幸せにつながると教えてくれました。

 私は、若い頃、『フラメンコギター』の修行に、スペインに来て、はじめて『フラメンコ』と出会いました。日本で「音楽」としての「フラメンコ」が好きになり、お金を貯めてスペインに来のですが、フラメンコの深さを知り、のめり込んで行きました。
フラメンコを始めた高校生の頃から、「ドサ周り」の仕事をする前までの『エッセイ』です。

 スペインに来た頃、フラメンコの発祥のアンダルシアの村々での、『フラメンコのフェスティバル』を周りながら、そこに生きている「人々(Gitano:ヒターノ・ジプシー)」の生活を垣間見ました。

ある村の広場で、背広を着て粋な帽子をかぶり、葉巻を吸ってる「お爺ちゃん」に、通りかかる子供から大人までが挨拶をしているのです。
その「お爺ちゃん」は、『お金』なんか持っていませんが、『フラメンコ』を唄うと、人々は、「鳥肌の立った自分の腕」をさすって聴き入るのです。
この「お爺ちゃん」は、「テレビ」に出たり、「劇場」に出たり、「フラメンコ場」には、出た事はありません。

私が、アンダルシアの村々の人々から学んだ「フラメンコ」と、一般の社会の、「劇場」で、また「テレビ」に出て有名だという、アーティスト達の『アルテ・芸』とは違いました。
 
フラメンコを聴いて、観て、『オ~レ~!』という「掛け声」を、フラメンコを「心の底から好きな人達」と『同時』に声が掛けられない『自分』がフラメンコ仲間の中で恥ずかしく、『フラメンコの好さ』が解る(『同時』に声が掛けられる)までは、何年も掛かったものです。

・フラメンコの「歌い手」の『唄い節」』の、「歌詞」が高まり、気持ちも高まり、韻をふみ、声も高ぶり、『スコーン!』と決めた瞬間、
 
    
・フラメンコの「踊り手」が、「サパテアード」(足のリズム)が、ゆっくり重く、悲しく落ち込んだ「テンポ」から、気持ちを持ち直し、元気が出てきた「リズム・テンポ」になり、こうやって生きて行けば良いんだよね! 『そうだろ!!』、、と〆て、止まった瞬間、

・ギターの音が、リズムと共に、増して来て、例えば、音が「3連符」から、「4連符」、「5連符」、「6連符」、と盛り上げていって、何連符か分からない最後の音が、「コンパス(フラメンコのリズム)」の最後に『スコーン!』と落ちた時、、、

・・・『オ~レ~!』という「掛け声」が掛かるのです。 
 (『オ~レ~!』、、そうだ! そうだとも!・・・負けてたまるか! 泣いてたまるか! 
  人は幸せに成る為に生まれて来たんだ!  そうだよ! きっと全て上手く行くさ!!

・・・この、『オ~レ~!』という「掛け声」が響きわたるその場に居る人々は、微笑み、肩を抱き、握手し合い、一つになるのです  

私は、「本当のフラメンコ」を追求して修行し、『ドサ周り』の舞台で、カンテ(唄)の伴奏で表現した自分のギターに、『オ~レ~!』という「掛け声」が掛かった時の嬉しさは忘れられません。 この時のお客さんの『オ~レ~!』と拍手と笑顔、そして一緒に舞台に出ていた『歌い手』と『踊り手』までもが、私の方を見て、お客さんと同じように拍手してくれたのです。

お客さんからは『おひねり』は無かったですが(笑)、
『拍手と掛け声と笑顔』が飛んで来たのです!  最高に幸せでした!!!

<私に、『オ~レ~!』という「掛け声」をかけてくれて、
  お客さんが笑顔で、喜んでくれている!、自分が追求した事は間違ってなかった!>


 ・この時の、嬉しくて幸せな気持ちは忘れられません。

今の「観光案内」の仕事をして行く中で、『ガイドブック』や『歴史書』などに書いて在る事と、『実際』との違いを知る事の大切さと、面白さを学びました。
つまり、「ガイドブック」などの『書物』には書いてない話も混ぜて案内してますと、、、
 、「裏話ガイド」と言われる事が在ります(笑)。


また、景色が良い「レストラン」で、夕陽から、黄昏時、照明が点いた時、星空の下の夜景、、を観ながらの食事を手配するのが私の仕事だと思っています。


・この朝焼けの、雲海から、地平線から、海から、登る太陽、、夕陽を浴びた街の全景、、
  照明に浮かび上がる「夜景」、、手が届くほど近い星空、
 また、「シェフ」の心のこもった料理、その美味しい「創作料理」をシェフの気持ちと共に、
 サービスしてくれるホテルの人、、、


 、、などを紹介したら、きっと皆さん喜んでくれるな~と思い、場所を探し、レストランを
  探し、人々の「優しい心」を今も求めています。
 
   
とにかく、私が案内します『お客さん、皆さん』が、笑顔で楽しんで貰うのが一番私は嬉しく、幸せなのです。
  (昔「ドサ周り」の『舞台』で味わったのと、今も同じなのです。)


 私の今までの経験を活かしました、 


『ゆとりある漫遊の旅』に、是非お出かけ下さい。 

  思い出に残る旅を演出します。


 ******************************************
    
* 後半

  「エル・アルボンディガ」の

      『フラメンコ談義』(エッセイ)

* 
『エル アルボンディガのフラメンコ談義』 目次   <クリック


                                                               右の端が私です。


   *******************************************

* 前半


      『コロナ禍』後の
 
  < 気ままな、『漫遊の旅』のお勧め >    
  

* スペイン、ポルトガル 個人旅行 


         

  まもなく『 コロナ 』等による、暗闇から抜け出し


       光明へ向う時が訪れ、

     新しい光の時代が始まります。  

 喜びと笑顔の「夢を求める旅」にお出かけ下さい。


私の今までの経験を活かし、言葉の違いを超えた、人と人との心のふれあいを大切にした『オリジナルの個人旅行』を企画して、ご案内する事を、今から10年ほど前から始めました。

皆さんを迎えてサービスしてくれる、ホテルやレストランの人々とは、私は昔から付き合っていますので、‘‘ おもてなし ’’ について理解してくれていて、サービスをしてくれます。

 また、『仲間との旅』で「小グループ」の場合、専用車の運転手さん、スペイン人の「ローカルガイド」さんも、どのようにして皆さんに喜んでもらえるかを考え、私と一緒に、皆さんを案内してくれます

 <ご参考> 

以下は、“  おもてなし ”  を分かってくれた、
 スペイン人の<やさしい心>との出会いです。

*印以下をクリックしてご覧下さい。

今人気の『カサ・ルラル』のご紹介 3<クリック 

* 今人気の『カサ・ルラル』のご紹介 4 <クリック 

街道沿いの、レストランのご紹介。   <クリック 




     <私が、企画して案内する旅>


*印、以下をクリックして、ご参考下さい。


 *『 コロナ禍 』後の
  <スペイン・ポルトガル 個人旅行>のご案内
 <クリック

 * 今人気の『カサ・ルラル』(プチホテル)のご紹介<クリック


 * お勧めの『スペイン料理』
  (「創作料理」、「タパス」、「ピンチョス」)<クリック

 * 各地の『名物料理』のご紹介    <クリック     

 * お勧めの「レストラン」、「バル」のご紹介。<クリック

 * 『バル巡り』のお勧め   <クリック

< グルメの『バスク料理』>

北スペイン・バスク地方の『グルメ料理』のご案内 <クリック

 * ポルトガルの旅   <クリック 
 

 
***************************** 


私が企画して同行します旅では、一日の案内時間は、
  8時間を超えますが、

 『超過料金』は、請求しません。









私が案内する旅は、「案内時間の制限」は無く、時間に『余裕』がありますので、午前中の観光、そして昼食のご案内、ホテルに戻り休憩の後、黄昏の街をぶらぶらして買い物を楽しんだり、「BAR(バル)」や「MESON(メソン)」、「TABERNA(タベルナ)」などのスペインらしい“居酒屋”で郷土料理を“タパス(小皿)”でつまみ、2~3軒の店をハシゴして雰囲気を味わいながら、スペイン人の生活・文化を体験することが出来ます。

『バル巡り』のお勧め   <クリック


 
黄昏時の街の散策、そして下町の『バル巡り』では、

スペイン人と共に、皆さんと一緒に私も楽しく過ごしますので、

私の「ガイド料金」の請求などしません。


 喜んでくれる人が居られるのが、私はとても嬉しく、
   だから楽しくご案内しています。

*私は、今の「観光通訳案内」の仕事をしていまして、

  お客さんに喜んで貰うのが何よりも嬉しいのです。

 ですから、「案内時間」が超過しても気にしないで下さい。

 これは、昔、私がギターで『ドサ周り』していた頃、舞台でお客さんに

 うけて拍手してもらった時と同じでして、皆さんに喜んで貰う

 のが私の案内の目的で、皆さんの笑顔が見たいからなのです。







<南スペイン アンダルシア地方のご案内>

*お客さんを、『タブラオ・フラメンコ』にご案内した時に、
 「入場料」を値切って、フラメンコの説明をします。

*アンダルシアの「フラメンコ場」での、私の説明を
   信じないお客さんがどうも多いようです。


 『フラメンコ』の「リズム」を、私が「手拍子」と「口(舌)音」で、
「表打ち」と「裏打ち」の音(アクセント入り)の『絡み』を
 聞いて貰います。

* お客さんは、『なんでそんな「リズム」が打てるのですか?』

・・・『私は昔、「ドサ周り」で、ギターを弾いてたんです。』

*『また、また~、、本当ですか ?、、冗談でしょ!!!』 

・・・『スペインの、いろんな街の「ナイトクラブ(キャバレー)」の、
 『ショウタイム』で、、つまり「ストリップの前座」ですよ。

 ・また、入場料が安くなったのは、予約の時、経営者(ボス)に、
   私の『芸名:アルボンディガ』と言ったからです。
  
 ・・・お客さんは、『・・本当かな ?・・・』

 と、信じてない方が多いのでは?、、と思われます。

ですから、改めまして、『自己紹介』を兼ねて、

    私の「エッセイ」を紹介させて頂きます。

                                        


         「エル・アルボンディガ」の

             『フラメンコ談義』



  

   


  

  


1)私の「ニックネーム」の
            『アルボンディガ』とは、


*『フラメンコ談義 9』 <クリック
 :「アルボンディガ」の名付け親である、「PEPE」との出会い。

ペーニャ・フラメンコのポスター』 <クリック
 
 :私が『フェスティバル』に出た時のポスター。
  「ニックネーム」の『アルボンディガ』が、
  『El Albondiga』という『芸名』になってしまいました。



2)初めての、アンダルシア

             「セビージャ」

     

フラメンコ談義 15』 <クリック

   :
「ここが日本で憧れていたスペイン !」


       


フラメンコ談義 16』 <クリック
     
: 
「シエスタ(昼寝)は、一日を二度楽しむため !」




           フラメンコ・フェスティバル >



フラメンコ談義 17』 <クリック
   :
“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”

フラメンコ談義 18』 <クリック
   :
*夏のフラメンコ・フェスティバル (2) *

フラメンコ談義 19』 <クリック
     :“ 夏のフラメンコ・フェスティバル (3)” 

フラメンコ談義 20』 <クリック
   :* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *

フラメンコ談義  第21回』<クリック
   :“ エンリケ エル コッホ ”の舞踊教室

フラメンコ談義  第22回』<クリック
   :― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―

フラメンコ談義  第23回』<クリック
     :― 『踊り子 ロシオ』 ―




 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


  この後は、また「セビージャ」にしばらく住み、

   そして、「踊り手」と、「歌い手」と「私・ギター」との、3人で、

    『ドサ周り』の仕事をしました。

    ( 近い内に、この続きを書きたいと思っています。・・・)


* 私の「フラメンコ・エッセイ」を、はじめから読まれたい方は、

   以下を参照されて下さい。

   :* 目次 フラメンコ・エッセー  <クリック



        。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




    ***********

  スペイン、ポルトガル 個人旅行 

      
専属の「観光通訳ガイド」が案内する旅

     ****************
 

 *『個人旅行』のお問い合わせ、

              お申し込み、ご相談は



      カテゴリー の中の 「 メールの送信  」




        または、
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   皆様からのメールをお待ちしています。



                 佐々木郁夫 拝 



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続  「エル・アルボンディガ」の

      『フラメンコ談義』(エッセイ)

    



         
コロナ禍』も、

    まもなく、終息すると思います。


スペイン、ポルトガル 個人旅行 



   何処に行って、どんなホテルに泊まって、

  どんな情景と出会って、人々の生活にも触れて、

本場の生ハム、美味しいワイン、名物郷土料理、「バル巡り」、


  印、以下をクリックして、ご参考下さい。

『 コロナ禍 』後の
  <スペイン・ポルトガル 個人旅行>のご案内
 <クリック


 :今人気の『カサ・ルラル』(プチホテル)のご紹介<クリック


 :お勧めの『スペイン料理』
    (「創作料理」、「タパス」、「ピンチョス」)  <クリック

 :各地の『名物料理』のご紹介          <クリック

 :お勧めの「レストラン」、「バル」のご紹介。  <クリック

 :『バル巡り』のお勧め   クリック

< グルメの『バスク料理』、>
北スペイン・バスク地方の『グルメ料理』のご案内 クリック
 

  。。。。。。。。。。。。。。。


*今から旅の夢を膨らませておいて下さい。



     
***********************************


           「フラメンコ・エッセイ」> 



*アンダルシアの「フラメンコ場」での、私の説明を
   信じないお客さんがどうも多いようです。



*お客さんを、『タブラオ・フラメンコ』にご案内した時に、
 「入場料」を値切って、フラメンコの説明をします。


 『フラメンコ』の「リズム」を、私が「手拍子」と「口(舌)音」で、
「表打ち」と「裏打ち」の音(アクセント入り)の『絡み』を
 聞いて貰います。


* お客さんは、『なんでそんな「リズム」が打てるのですか?』

・・・『私は昔、「ドサ周り」で、ギターを弾いてたんです。』

*『また、また~、、本当ですか ?、、冗談でしょ!!!』 

・・・『スペインの、いろんな街の「ナイトクラブ(キャバレー)」の、
 『ショウタイム』で、、つまり「ストリップの前座」ですよ。

 ・また、入場料が安くなったのは、予約の時、経営者(ボス)に、
   私の『芸名:アルボンディガ』と言ったからです。
  
   。。。。。。。。。。。。。。。


 ・・・お客さんは、『・・本当かな ?・・・』

 と、信じてない方が多いのでは?、、と思われます。


ですから、今回は、
改めまして、『自己紹介』を兼ねて、

    私の「エッセイ」を紹介させて頂きます。



                                     
右の端が私です。



         「エル・アルボンディガ」の

                 『フラメンコ談義』



  

   


  

*私は、今の「観光通訳案内」の仕事をしていまして、

  お客さんに喜んで貰うのが何よりも嬉しいのです。

 ですから、「案内時間」が超過しても気にしないで下さい。


 これは、ギターで『ドサ周り』していた頃、舞台でお客さんに

 うけて拍手してもらった時と同じでして、皆さんに喜んで貰う

 のが私の案内の目的で、皆さんの笑顔が見たいからなのです。


*その日暮らしのお金もなくても、相手を思いやる事の大切さを

  「フラメンコ」は教えてくれました。

     。。。。。。。。。。。。。。。。。。

  

  


1)私の「ニックネーム」の
        『アルボンディガ』とは、



フラメンコ談義 9 クリック
 :「アルボンディガ」の名付け親である、「PEPE」との出会い。

ペーニャ・フラメンコのポスター』 <クリック
 
 :私が『フェスティバル』に出た時のポスター。
  「ニックネーム」の『アルボンディガ』が、
  『El Albondiga』という『芸名』になってしまいました。



2)初めての、アンダルシア

         「セビージャ」


     

フラメンコ談義 15 クリック

   :
ここが日本で憧れていたスペイン !


       


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「シエスタ(昼寝)は、一日を二度楽しむため !」




          
 フラメンコ・フェスティバル >



フラメンコ談義 17』 クリック
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“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”

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*夏のフラメンコ・フェスティバル (2) *

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     :“ 夏のフラメンコ・フェスティバル (3) 

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   :* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *

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   :“ エンリケ エル コッホ ”の舞踊教室

フラメンコ談義  第22回クリック
   :― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―

フラメンコ談義  第23回クリック
     :― 『踊り子 ロシオ』 ―




 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


  この後は、また「セビージャ」にしばらく住み、

   そして、「踊り手」と、「歌い手」と「私・ギター」との、3人で、

    『ドサ周り』の仕事をしました。

    ( 近い内に、この続きを書きたいと思っています。・・・)



*フラメンコが心底好きなスペイン人、特に「ヒターノ」達が、
 
  日本人の私を、
仲間に入れてくれて、育ててくれた事に

   感謝しています。 




* 私の「フラメンコ・エッセイ」を、はじめから読まれたい方は、

   以下を参照されて下さい。

   :* 目次 フラメンコ・エッセー  <クリック



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  スペイン、ポルトガル 個人旅行 

      
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コロナ禍も、

  まもなく治まるように思いますので、

  < スペイン・ポルトガルの旅 >

   何処に行って、どんなホテルに泊まって、
  どんな情景と出会って、人々の生活にも触れて、
本場の生ハム、美味しいワイン、名物郷土料理、「バル巡り」、
 
  
  ・・・今から旅の夢を膨らませておいて下さい。


  今回は、
改めまして、『自己紹介』を兼ねて、

     私の「エッセイ」を紹介させて頂きます。



                                     
右の端が私です。



          「エル・アルボンディガ」の

                 『フラメンコ談義』



  

   


  

*私は、今の「観光通訳案内」の仕事をしていまして、
  お客さんに喜んで貰うのが何よりも嬉しいのです。
 ですから、「案内時間」が超過しても気にしないで下さい。

 これは、ギターで『ドサ周り』していた頃、舞台でお客さんに
 うけて拍手してもらった時と同じでして、皆さんに喜んで貰う
 のが私の案内の目的で、皆さんの笑顔が見たいからなのです。

*その日暮らしのお金もなくても、相手を思いやる事の大切さを
  「フラメンコ」は教えてくれました。

     。。。。。。。。。。。。。。。。。。

  

  


1)私の「ニックネーム」の『アルボンディガ』とは、


フラメンコ談義 9 クリック
 :「アルボンディガ」の名付け親である、「PEPE」との出会い。

ペーニャ・フラメンコのポスター』 <クリック
 
 :私が『フェスティバル』に出た時のポスター。
  「ニックネーム」の『アルボンディガ』が、
  『El Albondiga』という『芸名』になってしまいました。



2)初めての、アンダルシア「セビージャ」

    

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ここが日本で憧れていたスペイン !


       


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 フラメンコ・フェスティバル >


フラメンコ談義 17』 クリック
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“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”

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*夏のフラメンコ・フェスティバル (2) *

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   :* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *

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   :“ エンリケ エル コッホ ”の舞踊教室

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   :― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―

フラメンコ談義  第23回クリック
     :― 『踊り子 ロシオ』 ―


 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


  この後は、また「セビージャ」にしばらく住み、

   そして、「踊り手」と、「歌い手」と「私・ギター」との、3人で、

    『ドサ周り』の仕事をしました。

    ( 近い内に、この続きを書きたいと思っています。・・・)



*フラメンコが心底好きなスペイン人、特に「ヒターノ」達が、
 
  日本人の私を、
仲間に入れてくれて、育ててくれた事に

   感謝しています。 




* 私の「フラメンコ・エッセイ」を、はじめから読まれたい方は、

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専属の「観光通訳ガイド」が案内する旅

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フラメンコ談義・23

― 『踊り子 ロシオ』 ―

はじめて過したセビージャでの体験で、私は「フラメンコ」のとんでもない深さを知り、自分はどこから、何を勉強すればいいのかも判りませんでした。

『おばちゃん、マドリッドに帰るわ、』 『なんや! マドリッドに行くのか?』『おばちゃんのこと、忘れへんで~、「グラシアス ポル トード」(いろいろとお世話になり有難う!。・・・前の日に覚えたこの言葉が言えて良かった!!)本当にグラシアス!おおきに!』・・・と私がお礼を言うと、おばちゃんは、それまで見せなかったまじめな顔になり『大した事してないがな!・・・いつでもまたおいでや!気いつけてな!』『おばちゃんも身体に気つけや!また来るわ、アスタ プロント!』・・・と世話になったおばちゃんに挨拶しマドリッドに戻りました。

マドリッドの「アモール」のスタジオでは、夏のバカンスも終り、『パコ・フェルナンデス』のクラスレッスンが始まり、また、ペンションとスタジオを往復する生活が始まりました。 
 フラメンコの踊りの種類はカンテ(詩)の数より少ないといっても沢山あり、それぞれの踊りは基本的に決まっている事がわかって来ました。しかし、踊りのレコードは少なく、マドリッドの『タブラオ』では、「アレグリアス」とか「ソレアレス」、「セビジャーナス」、「ファンダンゴ デ ウエルバ」、「タンゴ」、「ブレリア」、「ルンバ」という踊りは観ることが出来るのですが、他の踊りはほとんどやっていませんでした。
 しかし、『パコ・フェルナンデス』のクラスで、「ティエントス」、「シギィリージャス」、「タンゴ デ マラガ」、「グアヒーラス」・・・なども学ぶことが出来ました。

踊りですが、はじめにギターが短いメロディーを引き、歌が始まり、歌に合わせた踊り(歌振り)、そして踊り手の「サパテアード(靴音の技)」、再び歌と歌振り、そして再び「サパテアード」になり、テンポが早くなっていき、歌も加わり、盛り上がって終わっていきます。

踊りの構成や、コンパス(リズム)がわかったといっても、どんな気持ちで、どのような雰囲気で弾けばいいのか自信が持てませんでした。踊り手や歌い手、そしてギター弾きが、気持ちを入れて表現するその“フラメンコの『アイレ(雰囲気)』”の源を知りたくなりました。

事前のうち合せもなく、ギターと歌と踊りが始まる舞台では、皆が共有する基本的な、心に湧く感情があるはずで、何を目指して、どんな「アイレ(雰囲気)」で表現するのかを彼らは当然知っているわけです。
物心がつく前から、フラメンコのコンパス(リズム)やカンテ(歌)が周りにある世界で育った彼らにとって、フラメンコの「アイレ(雰囲気)」は自然に身についているわけです。
 それぞれのフラメンコの「アイレ(雰囲気)」の表現に個性があって、お互いに影響しあい、‘いいもの’が生まれていきます。

日本で民謡、演歌、歌謡曲、ビートルズ、グループサウンズ、フォークソング、百恵ちゃん、ジャズ・・・を聞いて育ち、フラメンコに出会い、スペインにやってきた者とは違うわけです。
 自分が今まで経験した「フラメンコ」から、感覚的に漠然として理解していた「アイレ(雰囲気)」をより深く知りたくなったのです。
とにかくフラメンコの「カンテ」(歌)の内容がわからないと話にならないと思い、スペイン人に聞いたのですが、「アンダルシア訛り」と「Calo」(ヒターノ[ジプシー]語)も少しあるので難しいという事でした。
 
本屋に行き「Flamencologia」(フラメンコの研究)の本を何冊か買いましたがとても難しくてあまりわかりませんでした。

こんな時に逢ったのが、セビージャで知り合った「チャンケ」さん(日本で活躍しているギタリスト)でした。彼に、『フラメンコ詩選』(飯野昭夫編著)の本を教えてもらい本当に良かったと思っています。 今まで、少しわかる歌詞と歌い節の雰囲気で漠然としていた「カンテ」(歌)の内容が、解説をもとに、何度も繰り返して読むことで、詩を味わう事が出来るようになってきました。
 毎日「カンテ」(歌)のレコードをできるだけ聞くようにしましたが、スタジオから疲れて帰ってくると、レコードの詩の内容を辞書で引いて調べる元気も無く、ワインを飲んで終わる日がほとんどでした。

スタジオのクラスレッスンを弾いていると、クラスを受けている人に、個人練習の時の伴奏を頼まれ、忙しい時は1日に8時間も伴奏をした事があり、食事の時に箸も持てないぐらい疲れたのを覚えています。その当時は、稽古の伴奏を1時間すると安いレストランの「メヌー デル ディア」(日替わり定食)が食べられました。

 日本から踊りのレッスンを受けに来ていた人からも伴奏を頼まれ、お金をもらいました。踊りを勉強している人は、踊りのレッスン代と稽古をするためのスタジオの部屋代、伴奏ギター代も払って大変だと思ったものです。・・・・私が稽古の伴奏した日本人の踊り手さんのほとんどが、今ではそれぞれに「フラメンコ舞踊教室」を開設し、有名な先生として活躍しています。

スタジオで個人稽古の伴奏をすることが生活になっていった頃に、『ロシオ』というプロのバイラオーラ(女性の踊り手)に出会いました。彼女はマドリッドの「タブラオ」や「フィエスタ」(お金持ちが個人的に催すフラメンコの宴)などで働いている「ヒターナ」(ジプシー)でした。「タンゴ」や、「ブレリア」、「ルンバ」の曲も踊りながら歌います。
 はじめて彼女の伴奏をした時はコンパス(フラメンコのリズム)を外してしまいました。『・・・私の足に惑わされずに普通の「コンパス」を弾いていてくれる。』『ア、・・はい。』・・・・どうも彼女は自分の「サパテアード(靴音の技)」をあみ出しているようでした。「コンパス」に上手く収まるまで練習するのです。
 12拍子が繰り返しの「コンパス」(ソレアレス)を弾いていた時、途中でアクセントが決まったところにこないリズムの(靴)音が続き、「コンパス」に注意しながら弾いていると、12の繰り返しのいくつめかでバッチリ合っていきました。ロシオに『コンパスに入ったわ! ありがとう!』と言われたのですが、その時は自分ではさっぱり訳が判りませんでした。

プロのヒターナの踊りは違うな~と思いながら、スタジオでの最後の伴奏が終わり、帰りに、一人でよく飲みに行っていたBAR(バル)に行きました。 そこでは、マドリッドに住んでいる日本人の絵描さん達ともよく逢い、友達になったものです。このBARはレストランでもあり、カウンターで生ビールをコップ一杯注文すると、おいしい「つまみ」が付いてくるのです。一杯ごとに違うものをサービスしてくれて、5杯も飲むとおなか一杯になりました。

ある日、『フラメンコのダンサーを描きたいのですが~、だれか紹介してくれませんか?』・・と知り合いになった画家に聞かれました。『いいですけど』・・・となり、お付き合いが始まりました。
 話してみると、とても面白い人で、日本では女子高の美術の先生でもあるこの絵描さんの趣味が『糞虫』(馬とか牛の糞の下などにいる昆虫)を採集する事だそうです。それがとても綺麗な昆虫らしいのです。
 『・・・え~? そんな昆虫見たことありませんが~?』『いやいや、なかなか色がよくて綺麗なんですよ!』『へ~?・・・これから先生のことを“ふんちゅう先生”とよびますよ~!』『・・え~?・・困ったな~』・・・・

 私はこの“ふんちゅう先生”に「ロシオ」を紹介する事にしました。
『ふんちゅう先生、どんな踊り手の絵が描きたいのですか?まさかフラメンコ人形のようなもの?・・~ですか?』・・・『・・ん~?』と先生、『昔、僕が絵を勉強していた頃に、「日展」で入選したという、水玉模様のフラメンコ人形のような絵を見たことがありましたが~、ぜんぜん「フラメンコ」を表現していませんでしたよ。』・・・『~ん、そうね~』
『今、ちょうど、「ロシオ」というヒターナの伴奏をしているので、練習しているところを見に来ませんか?とても魅力的な女性ですよ!』 というと『・・え~!ジプシーの踊り子?!!・・・是非頼むよ!』

この “ふんちゅう先生”は一週間もスタジオに通い、踊っている瞬間のデッサンをはじめ、練習の合間に椅子に座って休んでいるところや、踊っている時の彼女の表情も描いていました。
・・・“ふんちゅう先生”の本名は『MASAYOSHI AIGASA』といいます。 今は東京の某美術大学の教授だと、奇遇にも最近マドリッドで知り合った、この先生の生徒だった絵描さんから聞きました。

『踊り子 ロシオ』という画(油絵とデッサン)は画廊が売らないことにしたと云う事を、以前、先生からの手紙で知りました。 
稽古着のままで、汗をかいて座って休んでいる、ヒターナ「ロシオ」・・・この画は、とても“フラメンコ”を感じさします。
 

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フラメンコ談義
第22回 

夏のフェスティバル 4

「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」1979年9月8日

― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―

トゥリアーナでの生活にも慣れてきたころ、まだもう一つ判らなかったのが『ヒターノ』(ジプシー)と『パジョ』(payo:[ジプシーにとって]よそ者、非ジプシー)の関係でした。「ヒターノ」のなかのフラメンコアーティストは一見して判るのですが、スペイン人の中の「ヒターノ」は区別がつかないぐらいに溶け込んでいるようでした。

しかし、ある日「バル」で飲んでいるとスペイン人のおっちゃんに、『今居たヒターノには気をつけるにゃで~』・・『今の兄ちゃんはヒターノか?何で注意しなあかんのや?』『・・・友達にはならんほうがええという事や。』『・・ふ~ん』、『・・・それって、日本人の中にも、スペイン人の中にも居るような奴か?』・・・『・・まあ~、そういうことや。』 

『おっちゃん、CAMASの町へはどうやって行けばええの?』『川向こうやが、何しに行くのや?』『フラメンコのフェスティバルを見に行くのんや!』・・・『・・少し前まで、「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)がたくさん建っていた「ヒターノ部落」やったが、今は5階建ての「ピソ」(アパート)がいくつも建った小さい町や。・・・行くのはええが、・・・気つけや!』

毎日のように「バル」で合うこの「スペイン人のおっちゃん」は、もう退職して年金で生活している、穏やかな、やさしい「おっちゃん」でした。しかし、「ヒターノ」にとっては「パジョ」であるこの「おっちゃん」の、「ヒターノ」に対する気持ちが伝わってきました。

有名なバイラオーラ(女性フラメンコダンサー)の『Matilde Coral(マティルデ・コラル)』に『おまえに教えることはもう何もないから、「自分の踊り」を踊っていきなさい。』と『マヌエラ・カラスコ』は子供の時に言われたそうです。
私が彼女の踊りから受けた強烈な印象は今も忘れられません。

 初めて、彼女の踊りを見たのは、エル・プエルト・デ・サンタマリアという港町でのフェスティバル:『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)でした。当時の彼女は、今のようなお金をかけた派手な衣装ではなく、ヒターナの日常を思わすような質素な衣装を着ていました。また、劇場用に演出された踊りではなく、砂ぼこりが立つ「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)の前で生まれたような踊りでした。「マヌエラ」から目を放せないギタリストやカンタオール(歌い手)と、彼女との緊張した掛け合いの舞台でした。別の「フラメンコの世界」からやって来た“フラメンコ”を観たと思いました。今もこのときの実況テープを聞くと、痩せた彼女の舞台を、その興奮を思い出します。

トゥリアーナの東側には広い河川敷が広がり、グワダルキビル川(本流)が流れていま    
す。橋を渡って北に行くと、「カマス」の町です。
「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」(1979年9月8日)のフラメンコフェスティバルは規模が今まで観たものより小さく、舞台の近くで見ることが出来ました。

はじめに、「 Lele de Camas 」の歌で、ギターは「 Parrilla de Jerez 」次に
「CHOZA」の伴奏は「 トマティート 」でした。( カマロンは出演料が高すぎて呼べなかったのだと思います。)

舞台に椅子やマイクがセットされ、ギターが“ソレアレス”を弾き始めました。カンテ(歌)が始まっても『マヌエラ・カラスコ』はまだ座っています。しかしその座っている彼女の表情や身体全体にスポットがあたっているかのように、うきあがって見えてくるのです。そしてゆっくりと立ち上がり、舞台をうつむいて歩く彼女の顔は『能面』のようで、一瞬、「能の舞」を思い出しました。そして、20分にも及ぶ踊りの間、彼女の表情は変わらず、一つの面で喜怒哀楽の変化に応じる『能面』のようでした。

 「 ア~イ~ ・・ アイアイヤ~イ~・・ア~イ~・・ア~イ~・・ア~~イ~イ~・・アアアアイ~イ~ゥ・・ア~イ~イ・・ジャジャ~ジャ~ジャ~~ゥ 」・・・と始まるカンテ(歌)のイントロは、迫害されてきたヒターノの、苦痛や悲痛のうめき声とも嘆き節とも云われています。
放浪の旅を続けて定住せず、風のように自由に生きていたという彼らは、綺麗な水があるそばに住み、そこが誰かの土地であろうが関係なく生活し、税金も払わず、国家を認めない彼らを、周りのスペイン人はうらやましく思っていたといいます。

最近、フランスで第2次世界大戦中に国家権力のもとにジプシーが捕らえられ強制収容所に閉じ込められた事実が公表され問題になっています。

 昔スペインが統一された頃(15世紀末)王は、「定住するか、出て行くか、死ぬか」を、ヒターノに迫った(ジプシー迫害令)といいます。定住していない者、戸籍がない者からは税金が徴収できません。このイサベル・フェルナンド両王の時代からカルロス5世、フェリーペ2世、フェリーぺ3世、フェリーぺ4世の時代へと何世紀にもわたって法的迫害は続いたようです。
新大陸貿易時代の「ガレー船」や、「炭鉱」での強制労働、そして南アフリカで行なわれていた「アパルトヘイト」(人種隔離政策)に近いヒターノに対する差別・・・・・

迫害の辛い日々や、鳥のような自由の喪失、貧しさや飢え、容赦のない刑罰、強制労働・・・などに対する嘆きが、カンテ(フラメンコの歌)のイントロの「アイアイヤーイ~・・・」に込められているといいます。

非常にジプシー色の濃い歌(カンテ ヒターノ)である“ソレアレス”のこのイントロを聞きながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる彼女、肩を落として舞台を歩きながら、カンテ(歌)を聞き、ギターがファルセータ(小メロディー)を弾き終わると、テンポを上げた「ジャマーダ(靴音による合図)」でコンパス(リズム)を〆、その同じ速いテンポで短い「サパテアード(靴音の技)」、そして再び「ジャマーダ」で〆るのです。しかし、もう肩は落としていませんし、顔を斜め下に向けていますが胸をはって堂々としています。

カンタオール(歌い手)の歌い節と彼女の踊りの絡み合い、そして、「ジャマーダ」で〆、「サパテアード(靴音の技)」が延々と続いていきます。もうリズムは「ソレア」より早い「ソレア ポル ブレリア」になり、舞台と観客を引っ張っていくのです。

会場がだんだん盛り上がり、コンパス(リズム)が歓声とともに大きな「うねり」のようになっていきました。最後、カンタオール(歌い手)は、「サ~ングレ(血)! サ~~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サングレ(血)! サングレ(血)! ア~~ィ~~ア~・・・!」・・・と熱唱して、上を向き両手を高々と上げる『マヌエラ カラスコ』に続いて舞台を降りていきました。

迫害のなか、肉親を亡くし、耐えがたい生活状況。生きるのに不可能な『苦悩』に満ちた現実のなかに『喜び』を感じるという矛盾した情念からか、「マヌエラ」の表情は苦悩に満ちながらも希望を信じ、それを見つけたかのようです。胸を張って力強く踊る彼女は、 その場にいる全ての者が一つとなる“ドゥエンデ( Duende:不思議な魅力)”― 至高の状態 ― へと引きずり込んだようでした。


拍手[20回]



ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

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