佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
72
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義 16


* シエスタ(昼寝)は、一日を二度楽しむため ! *

6月のセビージャは、朝晩はまだ涼しいのですが、昼間は35度を超え、40~43度ぐらいまで上がることがあります。しかし日本のように湿気がありませんので日陰は風があると意外と涼しいのです。

ある日、いつものように、ペンションの向かいの「BAR(バル)」(日本の喫茶店、兼、居酒屋)で遅い朝食(コーヒーとチュ-ロス)をすませ、散歩に出かけました。
 トゥリアーナ橋まで行くと、初めてセビージャに着いた日に見た『黄金の塔』や、『ヒラルダの塔』、そして遠くに『スペイン広場の南北の塔』などが夏空の下に広がり、橋の下を流れるグアダルキビル川には、カヌーやボートが浮かび、練習していました。

橋を渡らず、川べりのベティス通りをぶらぶら歩いていると、魚を釣っている人がいました。しばらく見ていましたが、あまり釣れないようです。 
この川でうなぎを釣ったという「原さん」(セビージャで世話になった友人)の話は~、・・・「蒲焼にして食ったら美味かった~!」・・・、ほんとうかな~?と思いながら、日陰に座って扇子を使っている「おばあちゃん」や、葉巻を吹かしている「おじいちゃん」に、「オラ~ !」と声をかけながら、オレンジの並木道を歩きました。

『黄金の塔』の向かいあたりまで歩き、「リオ グランデ」という高級なレストランの横の「BAR(バル)」で休憩。川の向かい側の街並みを見ながら、カーニャ(小コップ一杯の生ビール)とタパスの「チャンケッテ(5センチ位の小イワシ)のから揚げ」をつまみながら、
 
・・・『 日本で「古事記」が書かれた頃、イスラム教徒がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島を侵略、12、13世紀頃、今のモロッコから再びやって来たイスラム教徒が『黄金の塔』や『ヒラルダの塔』を建てたんだよ。そして、船が海から川を上がってきて、ここセビージャは港だったんだ。 コロンブスの時代も、 支倉常長が来た(1616年)時代も、18世紀の初めまで。・・・ 』
・・・と、友達になった「原さん」から聞いた話を思い出していました。

また、フラメンコは、日本の幕末から明治維新の時代に、今の“ タブラオ ”(フラメンコを見せる店)の初期の「カフェ・カンタンテ」(ヒターノたちの歌、踊りを主体としたアトラクションを見せる居酒屋)がこのセビージャで始まったんだな。・・・などと考えているうちに、小さいコップの「カーニャ」が、「タンケ」(日本の生ビールの小ジョッキーぐらい)に変わり、ラジオからは今年のヒット曲の「セビジャーナス」がながれ、つまみも、「ポークのトマト煮」、「タコの酢の物」、「ホタルイカのから揚げ」というタパス(小皿のつまみ)に変わっていきました。

少し早い昼食が済み、左側前方の『黄金の塔』を見ながら、「サン テルモ」橋を渡り『ヒラルダの塔』を目指して歩いていると、ビールを少し飲みすぎたのか、トイレがしたくなり、ちょうどホテルがあったので助かりました。とても豪華な五つ星で、『 アルフォンソXIII 』といい、自分の恰好が少し場違いかなと思いながら、しかし、馬鹿にされたらアカンと思い、悠々とトイレをして出て来ました。

ホテルを出て、左側に天使が彫刻された噴水を見ながら横断歩道を渡り、ツーリストオフィスを過ぎると、コロンブスが集めた新大陸の資料を納めた「インド古文書館」が右に、そして世界で一番大きな「カテドラル」(大聖堂)が正面にドカ~ンと現れびっくり。スペイン人が『 セビージャ、マラビージャ! ヒラルダ!、プータマドレ!!』といって誉めて自慢する、『 ヒラルダの塔 』・・・とにかくスゴイ、、、そしてまた、気高さも感じ、「なるほどな~」と納得しました。

『 塔の一番上は信仰のシンボルの女性で、風見になっていて、ヒラヒラ動くから「ヒラルディージョ」と言うのです。 』と教えてくれたのも「原さん」でしたが、当然、塔の下からは風見は見えませんでした。

大聖堂を後に大通りを進むと、古い市庁舎がありました。「この中に、支倉一行が持ってきた『巻軸』が本当にあるのかな~ ?」と、彫刻が施された立派な建物を見ながら思いました。
そして、地図を見ながら、市庁舎の横のプラサヌエバという広場を横切り、闘牛場へと向かいました。

「マエストランサ闘牛場」の横の大通りの向かいに建っている、あのオペラの「カルメンさん」の像に挨拶して、トウリアナ橋を渡り、ペンションに戻って、また夜のための、「シエスタ」(昼寝)です。今日の夜に会う人から「カンテフェスティバル」(フラメンコの歌のフェスティバル)の情報が聞けるのを楽しみに、ぐっすり寝ました。


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フラメンコ談義15

初めてのセビージャ

『 ここが日本で憧れていたスペイン !』

今なら、マドリッドからセビージャまで、AVE(日本でいう新幹線)で行けば、2時間半
ですが、私が始めてセビージャに行った時は、アト-チャ駅を、夜の11時に出発して、セビージャに、朝早く着くという夜行で行きました。

 当時、セビージャには二つのレンフェ(スペイン国鉄)の駅があり、カディス駅とコルドバ駅と呼ばれていました。 マドリッドからは、「プラサ デ アルマ」(通称コルドバ)駅に着きました。ムデハル様式(イスラムの文化を色濃く残した様式)の煉瓦と鉄のドームの建物は、今は展示会場などとして使われています。

 初めて着いたセビージャのコルドバ駅から、地図を見ながらまずは知人の住む、トゥリアーナ地区を目指して歩きました。 ここは、フラメンコの古い伝統をもち、セビージャのヒターノ(ジプシー)居住地で、フラメンコの歌い手や、踊り手、また、有名な闘牛士がたくさん昔から住んでいると聞いていた所です。

グアダルキビル川にかかる「イサベル2世橋」― 通称・『トゥリアーナ橋』- まで歩き、川向こうのトゥリアーナ地区をはじめて見た時、 「本当に今もヒターノがたくさん住んでいるのかな~ 、フラメンコのアーティストもたくさん住んでいるのかな・・・?」と思いながらこの橋を渡りました。 

この、トゥリアーナ橋は、パリの「エッフェル塔」の時代のもので、ほとんど「鉄」で造られています。自動車が通った時、足元が少し変だな?と感じたのですが、大きなバスが私の横を通った時は、はっきり橋が上下に動いているのがわかり、「この橋、大丈夫かな ?」と心配しながら渡りました。 ふと振り返ると、遠くに『ヒラルダ』(大聖堂の尖塔)や、『黄金の塔』、そして、『マエストランサ闘牛場』、また、周りの建物よりもひときわ高い「シュロ」の樹、等が、6月(こちらスペインではもう夏)のコバルトブルーのもとで、日差しのかなり強い朝日を浴びていました。

 セビージャは古くから陶器が有名で、トゥリアーナには、花柄の絵ざらや壺を売る店がたくさんありました。 そんな店がならぶ、橋を渡って正面前方にのびる「サン ハシント通り」の「ペンション」に宿を決め、知り合いに紹介してもらった人に会いに行きました。 
 トゥリアーナ橋を渡ってすぐ右に在る「公設市場」から少し離れたところにアパートを借りて住んでいる方で、古い黒ぶちのめがねをかけ、日本にいた時、テノールで歌っていたこともあるという、とても声のいい男性でした。
( この「原さん」とはこれ以来、友達になりました。・・実はつい最近、同じ黒ぶちのめがねをかけ、前歯に自分で治した(造った?)差し歯をはめ、日本に帰国しました。 )

彼のアパートの近くには、昔、『異端審問所』( カトリック世界で主に異端者の告発と処罰を目的として13世紀に設けられた機関。----スペインでは、1834年廃止された。--- )が在ったそうで、今も、通りの名前( INQUISICION 通り)として残っています。・・・ということや、コロンブスが、ここセビージャに持ち帰った(かっぱらった)金の量とか、・・・、博学の彼、原さんからは、その時、いろんなおもしろい話を聞きました。

 ここセビージャでは、いくら歩いても、なぜか疲れません。日暮れになると、「BAR(バル)」で、コップ一杯の「カーニャ」(生ビール)とタパスをつまみ、違う店では、美味しいタパスと「へレス」(シェリー酒)でまた一杯。飲み歩く街並みは、白壁の家々、ベランダには花を咲かした植木鉢、街路樹が、オレンジで、夜は、どこかあたたかさを感じさす水銀灯がそれらを照らします。そして、常にどこからともなく、「パルマ」(フラメンコの手拍子)が聞こえてくるのです。

『セビジャーナス(セビージャの民謡、舞曲)』を歌いながら、時には『ブレリア』のリズム!・・・
 
「ここはマドリッドと全然違うな~ !!」・・・と体全体で感じ、周りにいっぱいフラメンコがあると思い、自分でも、つい下手なパルマを打ちながら歩いたり、とにかく嬉しくてたまりませんでした。

 日本でアルバイトをして、お金を貯めていた時に憧れていたスペインが、ここに在る! と思いました。


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フラメンコ談義 14
  **  フラメンコは「音楽」ではありません。 **

「アモール」(フラメンコのスタジオ)でギターを弾いていた二人の日本人ギタリストとも友達になり、お互いに影響しあいながら、よくあそびました。
 「Masuko ちゃん」と「Kujira くん」(二人とも現在日本で活躍しています。)とは一緒によくギターを弾きました。 彼らは、ピソ(アパート)を借りていましたので、当然、台所があり、料理が作れて、私はよく遊びに行きました。皆で、なれない料理を作り、量り売りの安いワインを飲みながらフラメンコの話やバカ話をするのが楽しみでした。

 ・・・若い時の、私と「Masuko ちゃん」の写真が、佐藤愛子さんの本の『娘と私の天中殺旅行』に出ています。単行本ではなく、ピンク色の本で、185ページ・「マドリッドのフラメンコの練習場には日本人のギタリストもいた」・・・と写真だけで名前は出ていませんが、 左から、手だけの「テレサ」さん(かわいそう~!)、「Masuko ちゃん」,後ろに立っておられる「佐藤愛子」さん、そして、佐藤さんの娘さん、右の端が私です。・・・(大変おもしろい本です。)・・・

「Masuko ちゃん」のピソ(アパート)で、3人でフラメンコのレコードや実況のテープを聞きながら、『このギターリストはかっこ良いとか、よくないとか』『この実況のテープ聞いてみな !』とか、フラメンコを聞きながら、いろんな話をしたものです。そんなある日、夕食の時間になり、近くの日本レストラン・「東京飯店」に行きました。

 この、ラストロ(のみの市)の近くにあった日本レストランは現在ありませんが、なかなか安くておいしい店でした。経営者の「?」さんはおもしろい人でした。
我々3人が、わらいながら、にぎやかに席に着くと、『今日は皆さん、飛んでられますね~!』・・、「Masuko ちゃん」が言ったのだと思いますが、『今日は、あまり、やっていませんよ! ワインを三人で少しだけやっただけですよ。!』・・・・『失礼しました。ところで、ご注文は?』と聞かれ、3人とも、いつもより、おなかがへっていたので、とにかくたくさん注文しました。

 3人は食べながら、フラメンコの話やギターの事、弦の事、いろんな踊り手の話などを、わいわいと話しながら、お腹いっぱいになりましたが、こちらの習慣、食後にはデザートです。
黒ぶちのメガネをかけた経営者自らが注文に来てくれて(というか、ウエーターさんがもともといませんでした。)、『デザートは何になさいますか?』・・、『Kujira お前何する?』・・、『ボンちゃんは?』・・、結局、おいしい、いつものエラード(アイスクリーム)にしました。

・・・『チョコラーテを三つください。』・・、と言うと、『うちは、そんな不純な物はおいておりませ~ん!』・・『えっ? アイスクリームは無いのですか?』と「Kujira くん」が笑いながら言うと、・・・、『エッ!・・アイスクリームのチョコレートですか?、アッ! それならあります。いまお持ちしますので。』・・・3人で大笑い。(??)

 あっ そうそう、「Masuko ちゃん」のピソ(アパート)の隣には今は有名な、「堀越千秋」さん(画家・カンタオール)が住んでおられ、時々、カンタオールの「アグヘータス」を見かけました。

ある日、「Kujira くん」のピソ(アパート)に行くと、「Bomba ちゃん」(現在も日本で活躍しているギタリスト)が、「どさまわり」というか、巡業の仕事から戻ってきていました。 (後に、私もした「どさまわり」についてはまた詳しく書くつもりです。)
「Bomba ちゃん」から、スペインでの仕事の話を聞かしてもらいました。自分も何時か、出来たら良いな~とその時思いました。

ある日、『ボンちゃん、パコ・デル・ガストールというギタリスト知ってる?』と、「Masuko ちゃん」から聞かれました。『ガストール ?』・・・私は知りませんでした。

・・・・『 「トーケ デ モロン」といってね、 「パコ」の伯父さんが、「ディエゴ・デル・ガストール」というギタリストなんですよ。・・・ 』・・・と、その時いたギタリストの「ぺぺ」から、いつものように教えてもらいました。 その「パコ」のギターが今、マドリッドで、聞けるというのです。

私は、スペインに着いて数ヶ月目に、「パコ・デル・ガストール」のギターを聞いてしまいました。・・踊りの「ファイーコ」と、歌い手―「ガスパル・デ・ウトレラ」の伴奏、そして、今は亡き「バンビーノ」のブレリアや、ルンバの歌の伴奏。

・・・歌と踊りとギター、そしてその場(客を含む)のアイレ(雰囲気)が一つになる『場』に自分が居て、自分が日本人であることが、そして、まだよくフラメンコがわからないのに『こんなすごい雰囲気の場』にいる自分が信じられず、(ここにいてもいいのかな?)と、一瞬、思ったのをよく覚えています。

・・・『 そこの、日本から来たお兄ちゃん、我々と同時に「オーレ!」が言えない?・・・スペイン人にだって、わかんないやつはいるんだから、気にするな、好きなんだろ、少しは分かっているようだから、我々と一緒に楽しめばいいんだよ !』・・・

・・・と周りから言ってくれているように感じたのです。というのも、周りの多くのスペイン人と目が合っても、変な顔は見せず、『今の見たかよ! よかったな~』『今のギター聞いた? 最高だな~』・・・と私に本当に言ってるように、そして仲間に入れてくれているんだ、と思えたのです。

そして、何日も通って、身体全体で『フラメンコ』を感じられたことは、本当についていました。・・・
 この時に録音したテープは、後に「パコ」にも「モロン」まで持って行ったし、「ディエゴ」が好きな日本の高瀬さん(私の友人)にもお土産にしました。

 この隠して録音した「実況テープ」はとにかくよく聞きました。とくに、ギターで気持ちが入らず、落ち込んだ時や、後の「どさまわり」の仕事の時、自信を無くした時も。とにかく聞くと、元気になり気持ちが湧いてくるのです。

そしてこの時、フラメンコは、 音楽とは違うな~ 、もっと奥の深い『 何か 』があるな~と身体で気付きました。
 しかし、フラメンコが心底好きでわかるスペイン人と、私自身のなかから、本当に感じて「オーレ~!」と、同時に言え、『 何か 』を共有して話せるまでには、この後も、何年もかかりました。     

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 フラメンコ談義・13
   
** 「コンパス」が身体に響く『パコ・フェルナンデス』のグループレッスン **

生活にもだんだん慣れて、土曜日と日曜日は、日本で弾いていたギターソロを練習し、
月曜日からのスタジオでの、踊りの伴奏が楽しみになってきました。
日本で、フラメンコの踊りの伴奏をほとんど経験したことの無い私にとって、「アモール(・デ・ディオス)」(フラメンコ・スタジオの通称)での、「パコ・フェルナンデスのクラス」のお蔭で、フラメンコの「コンパス」(リズム)が、身体で理解できたと思っています。

パコ・フェルナンデスのグループレッスンが行われた部屋は、「アモール」のスタジオの中では、一番大きな部屋でした。
パコのレッスンを受けている人の中にはプロの踊り手もたくさんいました。彼女達はクラスが始まるまで、よく練習していました。それぞれが自分の苦手な「パソ」(左右の靴によるフラメンコのリズム)を何回も繰り返し、コンパスに入れようと(フラメンコのリズムに合わせようと)練習していました。

『ポルファボール、トカ、ソレアー(ソレアーを弾いてくれるかい、)』・・・パコがギターリストに小声で言いました。 
・・・「ソレアーを教えてくれるんだ~」「ソレアーよ!」と、レッスンを受ける彼女ら生徒が顔を見合わせ、・・・シーンとなり、・・どんな「振り」を教えてくれるのかと、それぞれの顔が緊張しながら、パコを見つめています。

パコのクラスでギターを弾いていたのは、「ホセ・ルイス」というスペイン人で、彼は、タブラオ『コラール・デ・ラ・パチェカ』のギターリストでした。
彼の横には、スペイン人やアメリカ人、そして日本人のギターリストが並び、多い時には7、8人が勉強に来ていました。
当然、というか、謙虚に、私は「ホセ・ルイス」から一番遠い端の椅子に座りました。
ギターの音合わせですが、「ホセ・ルイス」が、ギターの音「ラ」を一度だけ、「ラ~、ラ・ラ~」とくれるのですが、レッスンの部屋がうるさくて、合わせるのに苦労しました。

ホセ・ルイスが「ラスケアード」(フラメンコ奏法)で「ソレアー」のコンパス(リズム)で、「ジャマーダ」(踊り、又は、ギターソロで、一つの区切りの時、「〆る」時のリズム)を弾き、ファルセータ(小メロディー)を弾き始めました。
 パコは、そのギターをじっくり聞いています。・・・『オトラベス、ポルファ ボール』(もう一度弾いてくれ)・・・・パコは、その場で出てくるイマジネーションをもとに「振り」を付けていくのです。 一つの区切りの「振り付け」が決まると、皆に自分の振りを盗むようにと、何度も繰り返し踊り、できない人に個人的の「ここは、こうするのだよ」と教えていきます。 

「歌振り」も基本的な振りを教えてから、カンタオール(フラメンコの歌い手)を呼び、実際に歌を聞きながら「歌振り」を振付けていきます。よく来ていたカンタオールは「アルフォンソ」といって、今でも、マドリッドのタブラオ・フラメンコ「トーレス・ベルメハス」で歌っていますし、日本にも何回も仕事に行っているようです。

このようにして、ギターとカンテ(歌)を聴きながら、その時のイメージで振付けていき、どんどん「振り」が湧き出てくるパコの姿を近くで見ることができました。サパテアード(フラメンコの足(靴)の技)で、・・・こうでもない、・・・これでもない、・・・・・『コレダ~!・・』習っている皆が、『シ~、 シ~(ok~)それがいい ~ !オトラベス(もう一度やって)・・?』。言うのですが、本人のパコは、『 どうだったっけ?』と聞き、生徒から、『こんなんだったんじゃない。』・・・『そう、そう、これだよ!』

・・・・というふうにどんどん振り付けがされていき、あっという間に、時間が過ぎ、クラスが終わってしまいました。 新しいパソ(振りや足)が、どうもコンパスでわからない生徒が、必死にパコに聞いたりして、部屋から出ても皆で、今習った「振り」やサパテアード(足の技)について廊下でも話していました。

パコのグループレッスンは常に熱気があり、そして、座ってギターを弾いていると床から、フラメンコのコンパスがグループ全員の足音となって、どんどん身体に伝わってきました。
始めは、コンパスを数えていましたが、やがて、頭でわかろうとしていた自分が、コンパス(リズム)の「ノリ」を、身体でわかってきたと思えた時、とてもうれしく、スペインに来てよかったと思ったものです。

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フラメンコ談義・12

** 言葉はなんとかなります ! ? **


お正月(1979年)も過ぎたある日曜日の朝、ペンションの廊下で騒いでいる子供達の声で起こされました。まだ朝の11時前だというのに、サッカーをして遊んでいるのです。ペンションのおばちゃんや、この子ども達の親はなぜ怒らないのかな? と思いながら我慢していましたが、私の部屋のドアにボールが当たり、おもわずドアを開けて怒ったのです。『こら~!』(と日本語で。)すると、がき達が『オラ~!』(英語の「ハロー」の意味)と、元気よく笑って答えたのです。・・・・(えっ?)と一瞬おかしいなと思ったのですが、『オラ~!』と答えてドアを閉めました。・・・・???・・・

しかし、やっぱり腹が立って、 「まだ、寝てる人もいるのに、騒ぐんじゃない! それも廊下でサッカーをするなんて、とんでもない!」・・・と、ドアを開けて怒ってやろうと思い、再びドアを開けたのですが、・・・スペイン語でどう言うのかわからず、・・・がきの横を通って、トイレに行きました。・・・?

 トイレから出ると急に雨が降ってきました。マドリッドの冬は霧や雨の日が多いのです。 窓から見える中庭の洗濯物が気になったので、『セニョーラ!、セニョーラ~?』(おばちゃ~ん!)と呼んだら、コシーナ(台所)から出てきました。

『エスタ ジョビエンド !(雨が降っているよ)、サバナ、サバナ(シーツ、シーツ)』というと、・・・・・『あれは、・・・私の ・・ブラガ だよ!』・・・『ブラガ ?』と私が言うと、肝っ玉おばちゃん(100キロは越えていました)は顔を少し赤くし、笑いながら何か言ったのですが、わかりませんでした。しかし、おばちゃんのジェスチャーで、シーツだと思ったのは、おばちゃんの大きな「パンツ」だったのがわかり、おもわず笑ったのですが、おばちゃんにわるくてすぐに部屋に戻りました。

この時もそうですが、スペイン人は雨が降ってきても洗濯物を取り入れないのが不思議です。・・「そのうち晴れるから」・・・それはそうなんだけど。
今でも気になり、つい注意したくなります。スペイン人と同じようには思えません。

翌日、冬のバーゲンをデパート(エル・コルテイングレスというスーパー)でやっていると聞き、レコードを買いに行きました。何が良いのかわからないので、フラメンコの、聞いたことのあるアーティストのレコードをはじめ、わからないものも片っ端から買い集めました。(ずいぶん後のことですが、良いレコードとは、なかなか出会えないことがわかりました。)

 ある日、レコードを買った後、雨で乾かない下着を買おうと思い、デパートの店員さんに売り場を聞いたのです、(え~と、パンツのスペイン語は、そうそう「ブラガ」・・・ペンションのおばちゃんのパンツを思い出しながら・・) 

『ブラガはどこで売っていますか?』・・・・聞いたところに行くと、(なんと派手なパンツやな~)とおもい、(えっ!?)・・・そこは、赤や黒、黄色にピンクの女性の下着のコーナーでした。・・(スペイン人はいいかげんなことを言うな~、冗談きついな~、ここは女もんやないか!)、と思いながら、もう一度、側の店員さんに聞いたのです。『ブラガはどこに?』・・・『ここですよ、?』と言いながら、その店員さんは変な顔をして『誰のための?』と聞いてきたのです。 私は『自分のだ』と答えたら、店員さんは一瞬、驚いた顔をして、私を上から下まで見てから、ちょっと笑いながら、『カルソンシージョ は、一つ上の階のカバジェーロ(紳士)、もう一つ上の階よ!』といったのです、「カルソンシージョ」が何なのかわかりませんでしたが、とにかく、上の階に行きました。・・・やっと男性用のパンツ(カルソンシージョ)が買えました。(スペイン語の「パンツ」は女と男のものとは単語が違うのです。)

・・・「パンティーはどこで売ってますか?」と私に聞かれ、「自分用だ」と言った私を、一瞬、上から下まで見たあの店員さんは、「オカマ」とは思わなかったんだ、と、あの時、安心したものの、とても恥ずかしかったのを覚えています。 

このように言葉は失敗をつみかさね覚えていくもんだと思います。
 
しかし、文法が間違っていようが、難しい言葉がわからなくとも、意思や気持ちがうまく伝わればいいんだと思って、勉強しなくなるのはいけません。

『アルボンディガはおもしろいが、未だに、まともなスペイン語がしゃべれないな~』・・・・と言われますから皆さん気をつけて下さい。

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ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

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