フラメンコ談義 6
* スペインに行けるかな *
何回も美大を断られた私は、いつのまにか自分ではない、自分の中から本当に湧き出てくるものではない絵を書いている自分にいやになり、つまり受験の為の絵のお勉強は辞めることにしました。絵は今でも好きですが、当時美大へ行くことをあきらめ、 絵よりも音楽のほうが、ギターの左手の微妙な力で、又右手のタッチの違いで表現できる『音』のほうが、『色』より自分を表現しやすいし、自分にあっていると思ったことが、絵をしばらく止めることになった理由だと、自分に言い聞かせたのを覚えています。
とにもかくにも、正直なところ理屈抜きでギターのほうが好きだったのです。しかし、好きなことばかりしていたのでは、生活できませんし、周りを説得することもできないし、又自分も落ち着きません。とにかく人生の執行猶予の時間つまり、社会人になる前に何をして自分は生きられるかをじっくり考える時間と、好きなことをする時間、が必要でした。
『お父ちゃん、夜間やけど受かったわ、昼間働いて学費とこずかい稼いで夜大学行くわ。』『そうか』と親父、『それで、入学金を何日までに、払わなあかんのやけど?』、と言うと、親父が、『大変やな~ 頑張りや~』とさらっと言うのです。・・・『えっ!』・・・今からどうやって入学金稼ぐの? 短期のバイトで稼げるわけが無く、兄貴に借金。
・・・(いまだに返していません。すいません!兄貴。)
これで、向こう4年間もギターが弾けて、スペインへ行く準備が出来ると喜んだものです。
朝8時から1時までの5時間、「錦」の市場( 「京一屋」というお店です。)でバイトをして、午後ギターを弾いて、夕方大学へ、という生活が始まりました。 お金を貯めてスペインへ行くことが見えてきました。
・・・・・しかし、このような生活や、考え方が如何に“あまい”のかをスペインに来て教えられました。それもヒターノ(ジプシー)の5・6才の子供たちからです。
多くのヒターノの子供たちは、この年頃から、自分の食い扶ちは自分で稼がねばならないのです。
(今では、まだまだ差別が残るなか、義務教育を受けられる子供達が増えました。)
近頃は、ほとんど見かけませんが、マドリッドのソル広場(街の中心)では、二三人のヒターノの子供がギター(弦が一二本足らないのが普通でした)を弾き、「ルンバ」「タンゴ」「ブレリア」・・・を歌っていました。またセビージャにもいて、私は、「コンパス」(リズムの間の取り方)や「アイレ(雰囲気)」を勉強させてもらいました。 一曲終わると一人がお皿を持ってまわりチップを貰うのです。最後まで見ていると、集まったお金を皆で分けていました。
そういえば、ドローレス・アグへ-タ(フラメンコの歌い手、マヌエル・アグヘ-タの娘)は7歳の時、親父に捨てられ、道ばたで生活していたと彼女から聞きました。
この話をした後、彼女は、『親としては~、・・・だが、カンタオール(歌い手)としては尊敬しているのよ。』と言い、歌っている親父の肖像画のそばで、私に話してくれた自分の子供の頃を、歌ってくれました。 ・・・・・・・・・・・・・・。
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