佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義・23

― 『踊り子 ロシオ』 ―

はじめて過したセビージャでの体験で、私は「フラメンコ」のとんでもない深さを知り、自分はどこから、何を勉強すればいいのかも判りませんでした。

『おばちゃん、マドリッドに帰るわ、』 『なんや! マドリッドに行くのか?』『おばちゃんのこと、忘れへんで~、「グラシアス ポル トード」(いろいろとお世話になり有難う!。・・・前の日に覚えたこの言葉が言えて良かった!!)本当にグラシアス!おおきに!』・・・と私がお礼を言うと、おばちゃんは、それまで見せなかったまじめな顔になり『大した事してないがな!・・・いつでもまたおいでや!気いつけてな!』『おばちゃんも身体に気つけや!また来るわ、アスタ プロント!』・・・と世話になったおばちゃんに挨拶しマドリッドに戻りました。

マドリッドの「アモール」のスタジオでは、夏のバカンスも終り、『パコ・フェルナンデス』のクラスレッスンが始まり、また、ペンションとスタジオを往復する生活が始まりました。 
 フラメンコの踊りの種類はカンテ(詩)の数より少ないといっても沢山あり、それぞれの踊りは基本的に決まっている事がわかって来ました。しかし、踊りのレコードは少なく、マドリッドの『タブラオ』では、「アレグリアス」とか「ソレアレス」、「セビジャーナス」、「ファンダンゴ デ ウエルバ」、「タンゴ」、「ブレリア」、「ルンバ」という踊りは観ることが出来るのですが、他の踊りはほとんどやっていませんでした。
 しかし、『パコ・フェルナンデス』のクラスで、「ティエントス」、「シギィリージャス」、「タンゴ デ マラガ」、「グアヒーラス」・・・なども学ぶことが出来ました。

踊りですが、はじめにギターが短いメロディーを引き、歌が始まり、歌に合わせた踊り(歌振り)、そして踊り手の「サパテアード(靴音の技)」、再び歌と歌振り、そして再び「サパテアード」になり、テンポが早くなっていき、歌も加わり、盛り上がって終わっていきます。

踊りの構成や、コンパス(リズム)がわかったといっても、どんな気持ちで、どのような雰囲気で弾けばいいのか自信が持てませんでした。踊り手や歌い手、そしてギター弾きが、気持ちを入れて表現するその“フラメンコの『アイレ(雰囲気)』”の源を知りたくなりました。

事前のうち合せもなく、ギターと歌と踊りが始まる舞台では、皆が共有する基本的な、心に湧く感情があるはずで、何を目指して、どんな「アイレ(雰囲気)」で表現するのかを彼らは当然知っているわけです。
物心がつく前から、フラメンコのコンパス(リズム)やカンテ(歌)が周りにある世界で育った彼らにとって、フラメンコの「アイレ(雰囲気)」は自然に身についているわけです。
 それぞれのフラメンコの「アイレ(雰囲気)」の表現に個性があって、お互いに影響しあい、‘いいもの’が生まれていきます。

日本で民謡、演歌、歌謡曲、ビートルズ、グループサウンズ、フォークソング、百恵ちゃん、ジャズ・・・を聞いて育ち、フラメンコに出会い、スペインにやってきた者とは違うわけです。
 自分が今まで経験した「フラメンコ」から、感覚的に漠然として理解していた「アイレ(雰囲気)」をより深く知りたくなったのです。
とにかくフラメンコの「カンテ」(歌)の内容がわからないと話にならないと思い、スペイン人に聞いたのですが、「アンダルシア訛り」と「Calo」(ヒターノ[ジプシー]語)も少しあるので難しいという事でした。
 
本屋に行き「Flamencologia」(フラメンコの研究)の本を何冊か買いましたがとても難しくてあまりわかりませんでした。

こんな時に逢ったのが、セビージャで知り合った「チャンケ」さん(日本で活躍しているギタリスト)でした。彼に、『フラメンコ詩選』(飯野昭夫編著)の本を教えてもらい本当に良かったと思っています。 今まで、少しわかる歌詞と歌い節の雰囲気で漠然としていた「カンテ」(歌)の内容が、解説をもとに、何度も繰り返して読むことで、詩を味わう事が出来るようになってきました。
 毎日「カンテ」(歌)のレコードをできるだけ聞くようにしましたが、スタジオから疲れて帰ってくると、レコードの詩の内容を辞書で引いて調べる元気も無く、ワインを飲んで終わる日がほとんどでした。

スタジオのクラスレッスンを弾いていると、クラスを受けている人に、個人練習の時の伴奏を頼まれ、忙しい時は1日に8時間も伴奏をした事があり、食事の時に箸も持てないぐらい疲れたのを覚えています。その当時は、稽古の伴奏を1時間すると安いレストランの「メヌー デル ディア」(日替わり定食)が食べられました。

 日本から踊りのレッスンを受けに来ていた人からも伴奏を頼まれ、お金をもらいました。踊りを勉強している人は、踊りのレッスン代と稽古をするためのスタジオの部屋代、伴奏ギター代も払って大変だと思ったものです。・・・・私が稽古の伴奏した日本人の踊り手さんのほとんどが、今ではそれぞれに「フラメンコ舞踊教室」を開設し、有名な先生として活躍しています。

スタジオで個人稽古の伴奏をすることが生活になっていった頃に、『ロシオ』というプロのバイラオーラ(女性の踊り手)に出会いました。彼女はマドリッドの「タブラオ」や「フィエスタ」(お金持ちが個人的に催すフラメンコの宴)などで働いている「ヒターナ」(ジプシー)でした。「タンゴ」や、「ブレリア」、「ルンバ」の曲も踊りながら歌います。
 はじめて彼女の伴奏をした時はコンパス(フラメンコのリズム)を外してしまいました。『・・・私の足に惑わされずに普通の「コンパス」を弾いていてくれる。』『ア、・・はい。』・・・・どうも彼女は自分の「サパテアード(靴音の技)」をあみ出しているようでした。「コンパス」に上手く収まるまで練習するのです。
 12拍子が繰り返しの「コンパス」(ソレアレス)を弾いていた時、途中でアクセントが決まったところにこないリズムの(靴)音が続き、「コンパス」に注意しながら弾いていると、12の繰り返しのいくつめかでバッチリ合っていきました。ロシオに『コンパスに入ったわ! ありがとう!』と言われたのですが、その時は自分ではさっぱり訳が判りませんでした。

プロのヒターナの踊りは違うな~と思いながら、スタジオでの最後の伴奏が終わり、帰りに、一人でよく飲みに行っていたBAR(バル)に行きました。 そこでは、マドリッドに住んでいる日本人の絵描さん達ともよく逢い、友達になったものです。このBARはレストランでもあり、カウンターで生ビールをコップ一杯注文すると、おいしい「つまみ」が付いてくるのです。一杯ごとに違うものをサービスしてくれて、5杯も飲むとおなか一杯になりました。

ある日、『フラメンコのダンサーを描きたいのですが~、だれか紹介してくれませんか?』・・と知り合いになった画家に聞かれました。『いいですけど』・・・となり、お付き合いが始まりました。
 話してみると、とても面白い人で、日本では女子高の美術の先生でもあるこの絵描さんの趣味が『糞虫』(馬とか牛の糞の下などにいる昆虫)を採集する事だそうです。それがとても綺麗な昆虫らしいのです。
 『・・・え~? そんな昆虫見たことありませんが~?』『いやいや、なかなか色がよくて綺麗なんですよ!』『へ~?・・・これから先生のことを“ふんちゅう先生”とよびますよ~!』『・・え~?・・困ったな~』・・・・

 私はこの“ふんちゅう先生”に「ロシオ」を紹介する事にしました。
『ふんちゅう先生、どんな踊り手の絵が描きたいのですか?まさかフラメンコ人形のようなもの?・・~ですか?』・・・『・・ん~?』と先生、『昔、僕が絵を勉強していた頃に、「日展」で入選したという、水玉模様のフラメンコ人形のような絵を見たことがありましたが~、ぜんぜん「フラメンコ」を表現していませんでしたよ。』・・・『~ん、そうね~』
『今、ちょうど、「ロシオ」というヒターナの伴奏をしているので、練習しているところを見に来ませんか?とても魅力的な女性ですよ!』 というと『・・え~!ジプシーの踊り子?!!・・・是非頼むよ!』

この “ふんちゅう先生”は一週間もスタジオに通い、踊っている瞬間のデッサンをはじめ、練習の合間に椅子に座って休んでいるところや、踊っている時の彼女の表情も描いていました。
・・・“ふんちゅう先生”の本名は『MASAYOSHI AIGASA』といいます。 今は東京の某美術大学の教授だと、奇遇にも最近マドリッドで知り合った、この先生の生徒だった絵描さんから聞きました。

『踊り子 ロシオ』という画(油絵とデッサン)は画廊が売らないことにしたと云う事を、以前、先生からの手紙で知りました。 
稽古着のままで、汗をかいて座って休んでいる、ヒターナ「ロシオ」・・・この画は、とても“フラメンコ”を感じさします。
 

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フラメンコ談義
第22回 

夏のフェスティバル 4

「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」1979年9月8日

― 能面を思い出させた、『マヌエラ・カラスコ』 ―

トゥリアーナでの生活にも慣れてきたころ、まだもう一つ判らなかったのが『ヒターノ』(ジプシー)と『パジョ』(payo:[ジプシーにとって]よそ者、非ジプシー)の関係でした。「ヒターノ」のなかのフラメンコアーティストは一見して判るのですが、スペイン人の中の「ヒターノ」は区別がつかないぐらいに溶け込んでいるようでした。

しかし、ある日「バル」で飲んでいるとスペイン人のおっちゃんに、『今居たヒターノには気をつけるにゃで~』・・『今の兄ちゃんはヒターノか?何で注意しなあかんのや?』『・・・友達にはならんほうがええという事や。』『・・ふ~ん』、『・・・それって、日本人の中にも、スペイン人の中にも居るような奴か?』・・・『・・まあ~、そういうことや。』 

『おっちゃん、CAMASの町へはどうやって行けばええの?』『川向こうやが、何しに行くのや?』『フラメンコのフェスティバルを見に行くのんや!』・・・『・・少し前まで、「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)がたくさん建っていた「ヒターノ部落」やったが、今は5階建ての「ピソ」(アパート)がいくつも建った小さい町や。・・・行くのはええが、・・・気つけや!』

毎日のように「バル」で合うこの「スペイン人のおっちゃん」は、もう退職して年金で生活している、穏やかな、やさしい「おっちゃん」でした。しかし、「ヒターノ」にとっては「パジョ」であるこの「おっちゃん」の、「ヒターノ」に対する気持ちが伝わってきました。

有名なバイラオーラ(女性フラメンコダンサー)の『Matilde Coral(マティルデ・コラル)』に『おまえに教えることはもう何もないから、「自分の踊り」を踊っていきなさい。』と『マヌエラ・カラスコ』は子供の時に言われたそうです。
私が彼女の踊りから受けた強烈な印象は今も忘れられません。

 初めて、彼女の踊りを見たのは、エル・プエルト・デ・サンタマリアという港町でのフェスティバル:『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)でした。当時の彼女は、今のようなお金をかけた派手な衣装ではなく、ヒターナの日常を思わすような質素な衣装を着ていました。また、劇場用に演出された踊りではなく、砂ぼこりが立つ「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)の前で生まれたような踊りでした。「マヌエラ」から目を放せないギタリストやカンタオール(歌い手)と、彼女との緊張した掛け合いの舞台でした。別の「フラメンコの世界」からやって来た“フラメンコ”を観たと思いました。今もこのときの実況テープを聞くと、痩せた彼女の舞台を、その興奮を思い出します。

トゥリアーナの東側には広い河川敷が広がり、グワダルキビル川(本流)が流れていま    
す。橋を渡って北に行くと、「カマス」の町です。
「 NOCHE FLAMENCA en CAMAS 」(1979年9月8日)のフラメンコフェスティバルは規模が今まで観たものより小さく、舞台の近くで見ることが出来ました。

はじめに、「 Lele de Camas 」の歌で、ギターは「 Parrilla de Jerez 」次に
「CHOZA」の伴奏は「 トマティート 」でした。( カマロンは出演料が高すぎて呼べなかったのだと思います。)

舞台に椅子やマイクがセットされ、ギターが“ソレアレス”を弾き始めました。カンテ(歌)が始まっても『マヌエラ・カラスコ』はまだ座っています。しかしその座っている彼女の表情や身体全体にスポットがあたっているかのように、うきあがって見えてくるのです。そしてゆっくりと立ち上がり、舞台をうつむいて歩く彼女の顔は『能面』のようで、一瞬、「能の舞」を思い出しました。そして、20分にも及ぶ踊りの間、彼女の表情は変わらず、一つの面で喜怒哀楽の変化に応じる『能面』のようでした。

 「 ア~イ~ ・・ アイアイヤ~イ~・・ア~イ~・・ア~イ~・・ア~~イ~イ~・・アアアアイ~イ~ゥ・・ア~イ~イ・・ジャジャ~ジャ~ジャ~~ゥ 」・・・と始まるカンテ(歌)のイントロは、迫害されてきたヒターノの、苦痛や悲痛のうめき声とも嘆き節とも云われています。
放浪の旅を続けて定住せず、風のように自由に生きていたという彼らは、綺麗な水があるそばに住み、そこが誰かの土地であろうが関係なく生活し、税金も払わず、国家を認めない彼らを、周りのスペイン人はうらやましく思っていたといいます。

最近、フランスで第2次世界大戦中に国家権力のもとにジプシーが捕らえられ強制収容所に閉じ込められた事実が公表され問題になっています。

 昔スペインが統一された頃(15世紀末)王は、「定住するか、出て行くか、死ぬか」を、ヒターノに迫った(ジプシー迫害令)といいます。定住していない者、戸籍がない者からは税金が徴収できません。このイサベル・フェルナンド両王の時代からカルロス5世、フェリーペ2世、フェリーぺ3世、フェリーぺ4世の時代へと何世紀にもわたって法的迫害は続いたようです。
新大陸貿易時代の「ガレー船」や、「炭鉱」での強制労働、そして南アフリカで行なわれていた「アパルトヘイト」(人種隔離政策)に近いヒターノに対する差別・・・・・

迫害の辛い日々や、鳥のような自由の喪失、貧しさや飢え、容赦のない刑罰、強制労働・・・などに対する嘆きが、カンテ(フラメンコの歌)のイントロの「アイアイヤーイ~・・・」に込められているといいます。

非常にジプシー色の濃い歌(カンテ ヒターノ)である“ソレアレス”のこのイントロを聞きながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる彼女、肩を落として舞台を歩きながら、カンテ(歌)を聞き、ギターがファルセータ(小メロディー)を弾き終わると、テンポを上げた「ジャマーダ(靴音による合図)」でコンパス(リズム)を〆、その同じ速いテンポで短い「サパテアード(靴音の技)」、そして再び「ジャマーダ」で〆るのです。しかし、もう肩は落としていませんし、顔を斜め下に向けていますが胸をはって堂々としています。

カンタオール(歌い手)の歌い節と彼女の踊りの絡み合い、そして、「ジャマーダ」で〆、「サパテアード(靴音の技)」が延々と続いていきます。もうリズムは「ソレア」より早い「ソレア ポル ブレリア」になり、舞台と観客を引っ張っていくのです。

会場がだんだん盛り上がり、コンパス(リズム)が歓声とともに大きな「うねり」のようになっていきました。最後、カンタオール(歌い手)は、「サ~ングレ(血)! サ~~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サ~ングレ(血)! サングレ(血)! サングレ(血)! ア~~ィ~~ア~・・・!」・・・と熱唱して、上を向き両手を高々と上げる『マヌエラ カラスコ』に続いて舞台を降りていきました。

迫害のなか、肉親を亡くし、耐えがたい生活状況。生きるのに不可能な『苦悩』に満ちた現実のなかに『喜び』を感じるという矛盾した情念からか、「マヌエラ」の表情は苦悩に満ちながらも希望を信じ、それを見つけたかのようです。胸を張って力強く踊る彼女は、 その場にいる全ての者が一つとなる“ドゥエンデ( Duende:不思議な魅力)”― 至高の状態 ― へと引きずり込んだようでした。


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フラメンコ談義
第21回

ブレリアのコンパス(リズム)は「6拍」の繰り返し~?!!

“ エンリケ エル コッホ ”の舞踊教室

「トゥリアーナ」のカンテフェスティバルが終わり、このフェスティバルで知り合った日本人と一緒に、揚げたての「チュロス」を食べに行くことになり、トゥリアーナ橋を渡ろうとしたとき、目の前に、グアダルキビル川と旧市街、「ヒラルダ(大聖堂の尖塔)」、「黄金の塔」とスペイン広場の二つの塔、遠くの地平線、それら全てをつつみこむ雄大な朝焼けが広がり、太陽と供に東からゆっくりやって来る、やさしい光とさわやかな風・・・、おもわず深呼吸をし、その心地よい光と風の音を聞きながら、橋の上でしばらく立ち止まっていました。

およそ8時間もフラメンコにどっぷり浸かり、ほとんど歌詞の内容がわからないカンテを聴き続けて疲れきっていた全身を、今まで見たことのないスケールの朝焼けと、昇り始めた太陽が癒してくれているようでした。

私たちは、橋を渡り、闘牛場の横を通り、「ヒラルダ」を目指して歩き、そして、「大聖堂」から「アルカサール」の横を通り、ジャスミンの香りが漂うサンタ・クルス街にはいり、ムリーリョ公園まで、静かな夜明けの街に響く足音を聞きながら歩いて行きました。大きなゴムの木のそばに来た時、突然、おおきく聞こえてきた小鳥の“さえずり”に、はっと我に返りました。直径2メートルはある大きな木を見上げると、不気味なぐらい多くの鳥の黒い影が、鳴きながら動いていました。

広い通りを渡ると、「ウトレラ」や「モロン」、「ヘレス」などの町へ行く時のバスターミナルとレンフェ(鉄道)のカディス駅です。
『チュロスの店はもうすぐだよ。』と聞くと急にお腹がへってきました。

駅の横にあった屋台の揚げたての「チュロス」はとても美味しく、他では食べたことがありませんでした。この屋台で使っている油は100%「ラード」と言っていました。( 最近は「ラード」は身体に良くないといって、「ひまわりの油」を使う店が多くなりましたが、あの味が忘れられません。)

この時、一緒に「チュロス」を食べた日本人は、ギタリストで、もう何年もセビージャに住んでいる「マノ」さんと、「チャンケ」さんという人でした。
 彼らには、その後、どのようにスペイン人と付き合い、生活の中にあるフラメンコと出会うかや、それぞれのフラメンコに対する追求の仕方や自分自身とのかかわり方などの話を聞かしてもらいました。

二人とも、私に「アルボンディガ」というニックネームを付けた『ぺぺ』を良く知っていて、身近に感じてくれたのか、会うといろんな話をしてくれました。

・・・『この前、ヘレスで、小さなBAR(バル)から「カンテ」が聞こえてくるから入ったら、あの、「ボリ―コ」( EL Borrico ---ヘレスのカンタオール)だったんだよ!  知ってる? ボンちゃん、・・・生の声が聞けたんだ!! 』・・・『「ボリーコ」ですか?・・・知りません。』

『・・・ん、 踊り手の「エンリケ・コッホ」は? 今レッスンやっているから、行けば、弾かしてくれるよ。』・・・と、「チャンケ」さんに教えてもらい、早速、エンリケ・コッホのレッスン場に通いました。

 近所の子供達も通うレッスン場は住宅街にあり、ふだんの生活の中で、フラメンコを習うことは、ここでは自然なことであり、「さすがセビージャだな~」と、そのセビージャに自分が今いることを嬉しく思いました。

Enrique el Cojo ( エンリケ エル コッホ )は、セビージャの名高い舞踊教師で、有名なプロの踊り手も習った事を話題にします。また、彼のバイレは“フラメンコの神髄を伝える踊り”といわれています。

・・・『日本からフラメンコギターの勉強に来たのですが、あなたのクラスで弾かせてもらえますか ?』 ・・・と、なんとか話せ、『いいよ、いいよ、』と言いながら椅子を用意してくれる彼を見て、足が悪いことに気が付きました。

中学生位の女の子がはじめレッスンを受け、次にプロの踊り手(女性)が、腕と手、そして、指の動きを主に質問しながら「ソレア」と「ブレリア」のコンパス(フラメンコのリズム)で、短い振りをいくつも教えてもらっていました。
    
私は、ほとんどギターを弾かず、エンリケの身体全体から「ドー~ン」と伝わってくる『何か』に魅せられて椅子に座っていました。彼の「目の動き」にも、「指の先」にも、「肩の動き」も、コンパス(リズム)にピタッーと合っているのです。

心の動きから、呼吸の揺れ、そして足へ、腕へ、手へ、指に、最後は、目でコンパスを〆るのです。・・・彼の息ずかいが聞こえ、目の表情から、身体全体から、感性と思索の表現の「何か」が伝わってくるのです。
 サパテアード(踊りの足の技)は逆にその表現の邪魔になるかのように、・・・機械的なテクニックが何なの? それより大切なものがあるやろ! “ フラメンコ ”が。・・・・と、凄い心のこもった、気持ちの入ったレッスンを受ける側も、強烈なエンリケの「アイレ」(フラメンコの雰囲気)に引っ張ってもらいながら「大切な何か」を学んでいけるようです。

私は、彼の強烈な“アイレ”に驚き、また、コンパスにも驚きました。

「なに?これ!~、ブレリアのコンパスは12拍子の繰り返しと違うのか!」「6泊の繰り返しが、何でこんなに続いていくの?」とビックリしました。そのエンリケの『半分のコンパスの振り(踊り)』が具体的な何かを語っているようなのです。

たとえば、こんな事を、・・・・『仕事も金も無いって?』(6泊)・『世の中が信じられないって!』(6泊)、『お前さんに言うけど、いいか、』(6泊)、『パンが欲しいという我が子に、石を与える親がいるか?』(6泊)・『魚が欲しいという子に、蛇を与える親がいるかよ!?』
(6泊)・・・『まじめにやってりゃ~上手くいくっていう事を信じろってよ!』(6拍)・・・と『6泊の踊り』が続き、最後に『だって、神さんはよ~、俺らの親だろ~が!!』と言って踊りをキメテ(〆て)終わる。・・・というように。

Enrique el Cojo ( エンリケ エル コッホ )は、フラメンコのカンテ・ホンド(深い歌)をも、自分の心と身体全体の動きで表現できる人であると同時に、とても、やさしく、面白い“おっちゃん”でした。

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フラメンコ談義 第20回 

* 延々と続く「トゥリアーナ」のカンテフェスティバル *

「ラ・タティー」(踊り手)の表現の豊かさには、ビックリしました。「ソレア」が歌われている時の彼女は、綺麗な衣装を着た19世紀頃の婦人(マハ)のように思え、ジャマーダ(〆、区切り。新しい事をはじめる前の一つの終わり。)でカンテ(歌)をかっこよく盛り上げて終わり、「エスコビージャ(足のリズム)」が始まります。

踊り手の感性の豊かさと、足の技の見せ所でもあるこの「エスコビージャ」で、タティーの感情の押さえからか、テンポもゆっくり始まり、徐々に盛り上がっていく変化、また、どうしたのか、音が静かになり、テンポも遅くなっていき、悩みを抱えているかのような振りが続き止まるかと思うと、徐々に、考え方を変えたのか、落ち込んでいた気持ちをだんだん晴らすかのように、テンポが上がり、音も強く軽やかになり、胸を張って踊るのです。 時にはスカートを持ち上げ、また、腰を色っぽく動かしたり、・・・

・・・・『あんな男の一人や二人、ドウ~ってことないわ! 私の方からバイバイしてあげるわ! フン ! そこのお兄さん、私の綺麗な足見てんの~? それとも私の身体の曲線美 ? 結構いい女でしょ! わたし~。 声をかけてもいいわよ、一緒にお酒飲まない!!』と、言っているかのように観えたのです。

・・・・「えっ!~?!! ぼく~、そんなつもりで見ていたのでは、えーと~、まだ自信がありませんので、次回にします~。」と、オクテだった私はこんな事を勝手に思って、一人で赤くなったことを思い出します。

タティーの踊りの後、ランカピーノが歌うまで、しばらく、フェスティバルも休憩。ワインを飲んだり、つまみを食べたり、わいわいがやがや。・・・

 『オラ~! ササ(佐々木の略)! コモエスタ(・・赤坂は言いません)調子はどう? やっぱり観に来てたんか。』と知り合いになったトゥリアーナのおばちゃんが声をかけてきました。

このおばちゃんの家に昔、日本人がホームステイしていたとかで、以前、話しかけられ、家におじゃましたことがあります。
その時、家には中学生のひとり息子が食事をしていました。おばちゃんは、とっくに食べ終わったのに、息子は、もりもりまだ食べていると言うのです。

『この子は、チュレタ・デ・セルド(骨付きの豚肉のステーキ)を7枚も食べんのよ!まったく~』と言いながら、自慢の、背の高い息子を紹介してくれました。息子は食べ終わるとテーブルのものを台所へ持っていき、外へ遊びに行きました。

『日本はスペインより何もかもが進んでいると聞いたんやけど~、街はどうなってるのや?』・・・『そら~もう、自動販売機にお金を入れたら、何でも出てくるし、車は喋るし、道は歩かんかて、道が動くし~、地下鉄があり、地下街には何でも売っているし、人は多いけど~、シエスタ(昼寝)は無いよ、また、美味しくて安いワインも無いな~、・・・・』

 『ほんまかいな !?』と、おばちゃんが驚いています。(「ちょっとおおげさに言い過ぎたな~」と思いながら、おばちゃんの話が続きます。)
『だいぶ前に、あては旦那を亡くして苦労してんのんやけど~、お金を機会に入れたら~、男も出てくるかな~?』・・・『おばちゃん、それは無理やわ !』・・・
『やっぱりあかんか~、ワッハハ~』・・・・。

このおばちゃんは、路線バスに乗ってポルトガルとの国境を越え、シーツやテーブルセット、綿のタオル、麻の布、コーヒー、等を買出しして(当時、これらの物はスペインよりポルトガルの方が安かったのです。)、 その日にセビージャに戻り、毎日家々を回って行商して、無くなったらまた買出しに行くのです。
『今、息子に小遣いもやれない時が~、腰は痛いし~、でも、もうじき楽になるやろから、 ビールもう1本飲もか?』・・・・『------ん~。』・・・・・

・・・・あれは、私がまだ小学生の3年生ぐらいの頃でした。隣町内の、大八車を牽いて八百屋の行商をして三人の息子を養っているおじさんが、家に来て私の親父に何か泣きながら話して、帰っていきました。
おやじが『あした、お前の小学校へ行かなあかんわ!』・・私のおふくろが『なんでどす?』・・『お金が無いから、子供に給食代を持たせてやれなかったのに、先生が「忘れたらアカンや無いか!」と子供を怒って、黒板に名前を書いたと言うんや!』・・『そんな!かわいそうなこと~、先生もせっしょやな~、子供にそんなこと!! あてもその先生に、もんく言いたいわ! 』・・・

翌日、私と親父は一緒に家を出て、学校に行きました。親父は職員室に「殴りこみ」、いいえ、抗議するために入っていきました。
家を出る前におふくろが、『うちの家にもお金がなにも無いのに、うちのお父ちゃんは他人の事は親身になって、よう動かはんな~、お金にならへんのに。ア~あ、また、手間賃が入らへんがな~!』・・・と言っていたのを、親父のうしろ姿を見ながら思い出しました。 ・・・・・

このトゥリアーナのおばちゃんには、何度も食事をご馳走になりました。ある日、私のおふくろのことを話しました。

・・・「親父の知り合いの「若い人」( 親父が言うには、「あいつは今、地下にもぐっとおんにゃ」、「モグラかいな?」「そおや、えらいやっちゃで。」「・・?」)が来ると、おふくろは卵の入った焼き飯を作ってあげていました。われわれ家族のには卵は入っていなかったのに。・・・

私が小学生の頃は、「鍵っ子」で、仕事から帰ってくるおふくろの、家に近づく足音がどんなに待ちどうしかったか。・・・
 
おふくろの休みの日、外で遊んで帰ってきて、家の玄関を開けるとき「コトコト、トントントン~」と聞こえる、まな板の音がどんなに嬉しかったか。」・・・

私は、『・・・、母親に親孝行したいんだ、おばちゃんを見て、今また、思っているんだ。』と、下手なスペイン語で私の気持ちをなんとか伝えました。すると、おばちゃんは私を抱き寄せ、両側の頬にキスをし、『グラシアス、 ササ、お前の言いたいことは、よーわかったわ、おおきに、ありがとう!』

なんとか、「おばちゃんの息子は、きっと親孝行してくれるよ」ということが伝わったようでよかったと思ったものです。・・・・

フェスティバルが再び始まり、歌い手も、ランカピーノ、フアニート・ビジャール、カマロン、レブリハーノ、エル・アレネロ、ペドロ・ペーニャ、チケテテ、そして、ファル-コの踊り、・・・と、延々と続き、終わった時は、空がもう明るくなってきていました。
 

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フラメンコ談義・19

“ 夏のフラメンコ・フェスティバル (3) 

『これが“ ドゥエンデ ”かな !?』

ウトレラのカンテ・フェスティバル“XXIII POTAJE GITANO”(1979―6-23)での、テレモートの歌とモラオのギター、・・・「何か」がのりうつったような会場を包む異様な雰囲気に、一瞬、肌寒くて、ゾ~とした私は、回りの人々と共に違った次元にでも移ったかのように感じ、「シギリージャ」という『天の浮舟』にでも乗って現実を少し離れたような時を経験したのが忘れられません。

私の右側のワインをくれた、おっちゃんとおばちゃん、左側の、鳥肌の出た腕をさすっているおじいちゃん、そして、まわりのスペイン人達が、昔からいろんな事がお互いにあったのを知っている親戚のように思えたのが不思議でした。

『おっちゃん、おばちゃん、ワインおおきに! ほな、また。』『アディオース!さいなら!、おじいちゃん!』・・・おっちゃんも、おじいちゃんも握手しながら私の肩をぽんぽんたたいて、・・(今日はよかったな~、ええ歌聞けたな~、また合おな~!)・・・と、言っているようでした。

 このとき以来、自分はまだフラメンコを知らないから、とか、スペイン人じゃなく日本人だから、とか、アンダルシアに生まれたわけではないから、・・・・フラメンコはまだわからない、・・・なんて考えないで、素直に同じ人間として感じようと思うようになりました。

テレモートの後、歌い手は、フアニート・ビジャール、ペパ・デ・ウトレラ、チャノ・ロバート、カマロンとつづき、そして、夜中の1時半ごろから、ベルナルダとフェルナンダを初めて身近で聞きました。そして最後は皆が出てきて
フィナーレ、・・・終わったのは夜中の3時が過ぎていました。昼間と違ってとても寒い夜中の街を、セビージャ行きの一番バスが出るターミナルへと歩きました。

ウトレラのフェスティバル“POTAJE”からトゥリアーナに帰って、ギターも弾かず、録音したテープをよく聞きました。あの時のテレモートの『シギリージャ』、・・・「これが、ひょっとしたら、“DUENDES(ドゥエンデ)”(魔性をおびた魅力)かも~?、 !! 」と思いました。

歌とギターだけではない、会場のあらゆる音が入っているテープを聞きながら、目に涙を浮かべ、鳥肌の出た腕をさすりながら何度も一人でうなずいている隣にいた「おじいちゃん」の姿がうかびました。・・・・・

『II Festival de Cante TRIANA “ PASANDO EL PUENTE”』 というフェスティバルが“POTAJE”の6日後にありました。(1979-6-29)

なかなか味のあるこのフェスティバルのポスターがどこにでも貼ってあり、とても楽しみにしていました。当日はトゥリアーナの人が全員集ったのではないかと思うぐらいの人が会場にあふれていました。

はじめに、チャノ・ロバートが、エル・ルビオのギターで、「ソレア」と「アレグリアス」を歌い、次に、パコ・タラントがパコ・セペロのギターで、「ソレア」と「ブレリア」
(私が買ったばかりのレコードにある曲でした。)

 次に歌ったのは有名なフォスフォリートとギターはエンリケ・デ・メルチョ―ルです。エンリケのギターソロをマドリッドで聞いた時に、彼の親父さんのメルチョ―ル・デ・マルチェーナと逢えたのを思い出しました。

フォスフォリートが挨拶し、エンリケが「ソレア」を弾き始めました。歌い始めて、しばらくすると、『エンリケ! も~ちょっとゆっくりと弾かんかいな!』
と野次が飛びました。・・・こっちは録音しているので、まわりのとにかくうるさい事には腹が立っていたところでした。・・・しかし後でこのテープを聞いたのですが、えらい早い「ソレア」で驚きました。 「ソレア」の後、「タラント」と「アレグリアス」でした。

次に、ラ・タティーが「ソレア」を踊り、彼女のサパテアード(足のリズム)に圧倒され、コンパス(リズム)についていくのが大変でした。
 カンタオール(歌い手)が歌っている時の歌振りに、なんともいえないタティーの、歌の内容を聞きながら抑えている感情が(気持ちが)伝わってきました。その抑えていたものが、歌が終わりかける時にその歌をもりあげるかのようにテンポを徐々に上げ、「ジャマーダ」で爆発したかのように〆めるのです。その止まった瞬間、『オ~レー!』と声がかかりました。(「ジャマーダ」は、止まる前の合図)

タティーの踊りを見ていて、テンポは踊り手がリードするんだという事に気が付きました。当然、カンテ(歌)は歌い手に委ね、彼女がよく聞いているのが判りました。歌い手の歌い節が盛り上がっていき、叫びに変わるころ、そのカンテを、歌い手を、盛り上げるというか、カンテと踊りで、より大きな感動にもっていくために、テンポを上げ、キメているんだな~とわかりました。 踊りが止まった瞬間、肩で息をするタティーが『今のキメ(〆)方はどう~?、いいでしょ!?』と身体全体で聞いているかのようです。会場の人々は間をおかずに『オ~レー』と答え、この後、彼女の粋な踊りの振りの一つ一つに歓声が飛び、舞台と観客とが一つになり、より大きな「ノリ」が生まれていくのです。

小柄なタティーがだんだん大きく見えてきました。あたかも、彼女の今までの人生を「踊りのソレア」で表現しているかのようでした。・・・・・・・・・

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ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

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