佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
67
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義 18

*夏のフラメンコ・フェスティバル 2 *

「プエルト デ サンタ マリア」という港町で初めてフラメンコの「カンテ・フェスティバル」を体験し、アンダルシアの人々がフラメンコをどのように楽しむのかを観て、また一歩、フラメンコに近づけたと思いました。

レコードでしか聞いたことがない有名なカンタオール(フラメンコの歌い手)達を、実際に見て、歌を聞いて、土地の人々と一体となって、『オレー!』という歓声の中で行われるフラメンコの歌のフェスティバルに、正直に言って、戸惑い、圧倒され、何も食べずに、ただただ録音することに気をとられ、楽しむ余裕はありませんでした。
 マドリッドの「タブラオ」や劇場で観たフラメンコとはちがったものを感じました。ここでは、舞台の上のアーティストが主役ではなく、その場にいた全ての人が共有する“何か”が主人公なんだなと思いました。

 夜空の下で、ワインやいろんな食べ物のにおいが漂う中、幼児から子供、年頃の若い男女、おとうちゃん、おかあちゃん、葉巻をくわえたおじいちゃん、
エプロンを着けたままのおばあちゃん、・・・みんなが『オッレー!』『おーれ~!』と歓声を飛ばし、皆がひとつになっている雰囲気のなかで、いまひとつ、周りに溶け込めない自分に気が付いていました。

セビージャにもどり、トゥリアーナ(地区)を歩き回って、人々の生活を見るのがとても興味深く、顔見知りのスペイン人を見ると「オラ~!」と話しかけ、親しくなろうとしました。
「バル」(BAR)も「タパス」(小皿のつまみ)の美味しい店を何軒か選び、毎日、シエスタ(昼寝)の後、飲みに行きました。だいたい同じ時間に行くと、いつも同じ、おっさんや、粋なお兄ちゃん(常にアイロンのかかったワイシャツとズボン、長髪をくしでオールバックにとかし、革靴を素足で履いていた。)に会えました。

 ある「バル」では、「フィノ」(辛口のシェリー酒)を皆が飲んでいるので、私も飲みながらその場の雰囲気を楽しんでいました。ラジオからは、何処かの「カンテ・フェスティバル」の実況録音が流れています。
サンチョ・パンサのようなお腹をしたおっさん達は、『オッレー !』と声をかけたり、カンタオール(歌い手)の「詩」の話や、「歌い節」について話している様子で、その話し方が、五七調の歌でも聞いているような心地よい響きで、本当に詩の朗読でもしているようでした。
・・・ことばがもっとわかればな~、スペイン語ができれば話の中に入れるのにと思いながら、皆の様子を見ながら「バル」のカウンターの隅で飲んでいました。

『 XXIII POTAJE GITANO ― UTRERA 』 (1979年6月23日)
というフェスティバルを観に、セビージャから、30キロほど南東にある町、「ウトレラ」に行きました。 町にバスで着いて、野外のフェスティバル会場の場所を人に聞いて行ってみると、町の郊外に出てしまいました。また、町に戻り探していると、さっき教えてくれた兄ちゃんが、こちらを向いて笑っています。
・・・その時は腹が立ちましたが、スペイン人に慣れてきた頃、わかったのですが、ただ、知らないということが、スペイン人は言えないだけで、別に悪気は無いということです(?)。 また、スペイン人は周りにスペイン人が居ても、我々外人に道を聞いてきます。そんな時、私はわかりやすく正確に教えてあげますし、知らなければ知らないと正直に伝えます。・・・

夕方の、8時半頃、やっと見つけた野外会場に入り、録音が上手くできそうな場所に席を取り、座っていると、まわりのスペイン人が美味しそうな料理を手に持っているのです。うらやましそうに見ていたのが通じたのか、『これ、タダやで~、早よう行って貰ってこんかいナ~!』と教えてくれたのです。

「ポターヘ ヒターノ」という料理で、「ジプシー風のポタージュ」というか、豆やジャガイモ、にんじん、たまねぎ、チョリソ(ソーセージ)、皮の付いたままのにんにく、・・・とにかく、いろんなものが入ったもので、なかなか美味しい料理でした。木のスプーンも付いていて、かめないものを出しながら(腸詰の紐や皮、にんにくの皮など。)食べました。

この料理の名前の「POTAJE GITANO」が、この町・「ウトレラ」のフラメンコ・フェスティバルの名前なんだと食べながら気が付きました。 (なんか飲みたいな~)と思っていると、隣のおっちゃんとおばちゃんが、皮袋に入った赤ワインをくれました。
皮袋を押さえるとワインが細く飛び出し、それをすばやく口にうまく入れるというのですが、なかなか難しくアゴや首にかかってしまいます。まわりのスペイン人がお手本を見せてくれるのですが、どうも上手くいきません。

食べたり飲んだりしていると、舞台で若いギタリスト二人が、パコ デ ルシアのギター曲「エントレ ドス アグア」を弾いていました。演奏が終わると、司会者が出てきて挨拶し、出演するアーティストを紹介して、カンテ・フェスティバルが始まりました。

はじめのカンタオール(フラメンコの歌い手)は、シェリー酒で有名な町「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ」の『フェルナンド・テレモート』 、ギターは、『マヌエル・モラオ』です。
 若い頃は踊り手だったとは想像もつかない巨漢の「テレモート」が出てきて、椅子に座り、「仁王」(金剛力士)さまのような大きな目で、少し周りを見てから、挨拶をはじめました。
『・・私は、この村で歌えるのが光栄~です。・・・え~、フラメンコのカンテを愛する村と神が~・・・』と話していると、『話はええから、はよ歌え~!』と野次が飛びました。・・『もう、ちょと、待ってくれや~!?・・(少し怒った顔で、ブツブツ)・・せっかく、ちゃんと、なれへん挨拶してんのに!・・』・・・会場から大きな笑い。・・・

挨拶を続ける「テレモート」、『この村は、ほんまに、ええ村や、カンテをわかっているし、うまい歌い手も居るし~・・・そして~、私の村もそうやけど!。・・・ひとつ言わしてもらうで~、・・ウトレラ、万歳!、ヘレス、万歳!』・・・『これでOKやろ~?!』・・・会場から拍手。
『まづは「ソレアー」から歌いまスァ!』・・・

「モラオ」のギターと共に延々と15分の「ソレア」を聞きました。途中なぜか「花火」が何回もうちあげられました。その花火の音がコンパス(フラメンコのリズム)に「ピタッー」と入っていたというわけではないのに、みんな花火なんかに惑わされないで、「ソレア」をジックリ聞いています。

歌が終わると、何度となく『オッレー~!』の歓声があがりました。 
そして、周りの人々は、またワインを飲んだり、つまみを食べたり、隣の人と「テレモート」の歌について、興奮してしゃべったり、・・・再び会場が騒がしくなりました。・・・舞台では「テレモート」が汗を拭き、「フィノ」を飲んでいます。

そんな中、ギターの「モラオ」が『シギリージャ』を弾きはじめると、ざわめいていた会場は「シーン」となり、しばらく聞いていると、私にも『ガーン!』となんともいえない雰囲気が伝わってきました。
そして、テレモートが歌い始めると、さっきまで、一緒に食べたり飲んだりして騒いでいた、隣のおっちゃんや、おばちゃんをはじめ、全ての人が異様は雰囲気に包まれていく変化を感じました。 会場の雰囲気が徐々に「 ジーン~ 」と重くなり、人々は下を向いて、「テレモート」のカンテと「モラオ」のギターに引き込まれていきます。・・・カンテの歌詞の内容がわからない私は、はじめ、いったいどうしたのかわかりませんでした。しかし、なんともいえない会場に漂う“ 気 ”を身体で感じました。

歌が終わると、すごい拍手と歓声が起こりました。隣のおじいちゃんは、私に腕を見せ、『見てみ~ ほれ! 鳥肌がまだ消えへん~!』と言いながら一人で何度もうなずき、目は涙で潤んでいました。・・・・・・

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フラメンコ談義 17

“夏のフラメンコ・フェスティバル (1)”

夏のアンダルシアは飛んでる鳥があまりにも暑いので、電線にとまって休もうとすると火傷して落ちて、車の屋根に落ちたら、焼き鳥になってしまいます。本当に、とりかえしがつきません。・・・・・
 鯵の干物は30分で出来ますし、洗濯物は干し終わると、始めに干したものからとり入れるのです。本当にすぐ乾いてしまいます。

スペインでの最高気温は、コルドバとセビージャの間にある、『エシーハス』という町で、60度を記録したとか。 私自身、新聞、つまり日陰の百葉箱の中の温度が48度という日を経験しています。炎天下では、自動車のボンネットの上では目玉焼きができ、夕方の6時ごろは、55度は超えていたと思います。家の外には猫も歩いていません。部屋の中の何を触っても自分(体温)より熱いのです。 だから、シエスタ(昼寝)をするしかないのです。(子供の夏休みは3ヶ月間もあります。)

人々は、夏、野良で夜明けとともに働き、昼の1時ごろまで仕事をして家に帰り、よく冷えた“ガスパチョ”(オリーブ油とワインビネガ、パン、にんにく、塩、の入ったトマトをベースにした、夏の冷たい野菜スープ)を飲みながら、昼ご飯(2時~3時ごろ)を食べて、4時ごろから、夕方の8時か9時頃までシエスタ(昼寝)をして、夜中の2時か3時ごろまで夕涼みをしています。(昔は、朝までフィエスタ、フラメンコを楽しんでいたようです。)

アンダルシアの村や町では、夏、夕涼みを兼ねた野外に映画館ができます。折りたたみの木の椅子を並べ、‘ひまわり‘ や‘かぼちゃ’の種を食べたり、生ハムやチョリソ(サラミのような腸詰ソーセージ)とパン、そして。ビールや「夏の赤ワイン」(赤ワインを氷と少し甘い炭酸水で割ったもの)を飲みながら夜を楽しむのです。

私が初めてアンダルシアの町や村に行ったこの年(1979)、『ブルースリー』の映画がすごい人気でした。(映画は大体がアクション物で古い映画が上映されていました。)、 悪漢が主人公にやられると、ほとんどのスペイン人はスクリーンに向かって、大きく声援を送り、拍手して隣の人と喜び合うのです。・・・これは今も変わりません。

 小さい町に行くと、昔、子供達に石を投げられた人がいたと聞きましたが、まだまだ昔の価値観が影響しているのでしょうか。 東洋人を見ると、『チーノ、チーノ』といって未だに馬鹿にする人がいます。

・・・コロンブスの時代、ヨーロッパ人(キリスト教徒)以外は、『猿と人間の間ではないか?』と、ヨーロッパでマジに議論されていたとか。・・・

後の「奴隷貿易」につながり、また、多くのヒターノ達も、ヒターノ(ジプシー)であるがゆえに、新大陸へのガレー船の舟漕ぎとして徴用(強制労働)されたようです。

・・・“ 私の息子が、船を漕ぐ奴隷として連れて行かれたのは私の罪。 ただ、ヒターノであるだけで、・・だとしたら、ヒターノである親の私の罪。・・”という歌があります。・・・

 私は石を投げられませんでしたが、どんな町や村へ行っても子供達が寄ってきて、「チーノ、チニート !」と言われました。 だんだん寄ってきて、こちらが「オラ~ !」(英語のハローの意)というと、よく、『空手を知っているか?』『ブルースリーを知っているか?』と聞いてきました。私は、腕と手指を動かしながら、空手の準備体操のような真似をしながら、『ブルースリー か ? よく知っているよ、兄弟だもん !』といって、大きな声と手を使って『 チョンワ~ !!』というと、「チーノ」といって馬鹿にしたから、仕返しされると思ったのか、子供は走って逃げていきました。

私が始めて“フラメンコ・フェスティバル”- [カンテ(フラメンコの歌)フェスティバル] - を見たのは、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」というカディスの隣の港町です。
・・・カディスでは今も「造船」が大きな産業ですが、昔(16世紀)、ガレー船が造られたのもこのあたりのようです。 イギリスの海賊から上手く逃げて、スペインに金や銀を積んで帰ってきた船なども荷を降ろした後、この「エル・プエルト・デ・サンタマリア」あたりでも停泊していたことでしょう。

当時のイギリスでの、「エリザベス女王一世」と「(サー・)ウォルター・ローリー」(海賊)の有名な話によりますと、この海賊を女王は貴族に召し上げたそうです。(スペイン船を襲って金や銀をイギリスに持ち込んだ功績(?)により、「サー(Sir--卿)」になれたのです。) 
 この海賊がイギリス艦隊(海軍)の司令長官に出世して、後にスペイン無敵艦隊をやっつけてしまいます。(1588)・・・・

「エル・プエルト・デ・サンタマリア」といえば、“カマロン”が有名になるまで、最も人気があったカンタオールの“パンセキート”の故郷です。この街のすぐ近くに、‘プエルト・レアル’や、カマロンの‘サン・フェルナンド’の町があり、また、‘へレス’の町もそんなに遠くありません。

港の近くの野外映画館に、舞台や屋台のBAR(バル)が仮設されたというところがフェスティバル会場でした。日が暮れ始めた9時半頃から人々が集り、「フラメンコ(カンテ)のお祭」が始まりました。

『GRAN FESTIVAL “Noches de la Ribera”』(1979年6月7日)は、夜の10時ごろから夜中の3時ごろまで、カンタオールが7人、踊りが“マヌエラ・カラスコ”、最後は、‘パンセキート’が息子のギター伴奏で延々と歌っていました。

始めに、‘チケテテ’(今は、流行歌を歌っています。)、‘ランカピーノ’、‘フォスフォリート’、‘マヌエラ・カラスコ’(踊り)、‘トゥロネーロ’、‘カマロン’、
‘レブリハーノ’、‘パンセキート’。一人のカンタオール(歌い手)が40分ぐらい歌います。ギターは、‘エル・ルビオ’(マヌエル・ドミンゲス)、‘エンリケ・デ・メルチョール’、‘ホァキン・アマドール’、‘トマティート’、・・。

・・・今、この時の実況テープ(90分テープが3本です。)を久しぶりに聞きながら当時を思い出しています。・・・・・・・

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フラメンコ談義 16


* シエスタ(昼寝)は、一日を二度楽しむため ! *

6月のセビージャは、朝晩はまだ涼しいのですが、昼間は35度を超え、40~43度ぐらいまで上がることがあります。しかし日本のように湿気がありませんので日陰は風があると意外と涼しいのです。

ある日、いつものように、ペンションの向かいの「BAR(バル)」(日本の喫茶店、兼、居酒屋)で遅い朝食(コーヒーとチュ-ロス)をすませ、散歩に出かけました。
 トゥリアーナ橋まで行くと、初めてセビージャに着いた日に見た『黄金の塔』や、『ヒラルダの塔』、そして遠くに『スペイン広場の南北の塔』などが夏空の下に広がり、橋の下を流れるグアダルキビル川には、カヌーやボートが浮かび、練習していました。

橋を渡らず、川べりのベティス通りをぶらぶら歩いていると、魚を釣っている人がいました。しばらく見ていましたが、あまり釣れないようです。 
この川でうなぎを釣ったという「原さん」(セビージャで世話になった友人)の話は~、・・・「蒲焼にして食ったら美味かった~!」・・・、ほんとうかな~?と思いながら、日陰に座って扇子を使っている「おばあちゃん」や、葉巻を吹かしている「おじいちゃん」に、「オラ~ !」と声をかけながら、オレンジの並木道を歩きました。

『黄金の塔』の向かいあたりまで歩き、「リオ グランデ」という高級なレストランの横の「BAR(バル)」で休憩。川の向かい側の街並みを見ながら、カーニャ(小コップ一杯の生ビール)とタパスの「チャンケッテ(5センチ位の小イワシ)のから揚げ」をつまみながら、
 
・・・『 日本で「古事記」が書かれた頃、イスラム教徒がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島を侵略、12、13世紀頃、今のモロッコから再びやって来たイスラム教徒が『黄金の塔』や『ヒラルダの塔』を建てたんだよ。そして、船が海から川を上がってきて、ここセビージャは港だったんだ。 コロンブスの時代も、 支倉常長が来た(1616年)時代も、18世紀の初めまで。・・・ 』
・・・と、友達になった「原さん」から聞いた話を思い出していました。

また、フラメンコは、日本の幕末から明治維新の時代に、今の“ タブラオ ”(フラメンコを見せる店)の初期の「カフェ・カンタンテ」(ヒターノたちの歌、踊りを主体としたアトラクションを見せる居酒屋)がこのセビージャで始まったんだな。・・・などと考えているうちに、小さいコップの「カーニャ」が、「タンケ」(日本の生ビールの小ジョッキーぐらい)に変わり、ラジオからは今年のヒット曲の「セビジャーナス」がながれ、つまみも、「ポークのトマト煮」、「タコの酢の物」、「ホタルイカのから揚げ」というタパス(小皿のつまみ)に変わっていきました。

少し早い昼食が済み、左側前方の『黄金の塔』を見ながら、「サン テルモ」橋を渡り『ヒラルダの塔』を目指して歩いていると、ビールを少し飲みすぎたのか、トイレがしたくなり、ちょうどホテルがあったので助かりました。とても豪華な五つ星で、『 アルフォンソXIII 』といい、自分の恰好が少し場違いかなと思いながら、しかし、馬鹿にされたらアカンと思い、悠々とトイレをして出て来ました。

ホテルを出て、左側に天使が彫刻された噴水を見ながら横断歩道を渡り、ツーリストオフィスを過ぎると、コロンブスが集めた新大陸の資料を納めた「インド古文書館」が右に、そして世界で一番大きな「カテドラル」(大聖堂)が正面にドカ~ンと現れびっくり。スペイン人が『 セビージャ、マラビージャ! ヒラルダ!、プータマドレ!!』といって誉めて自慢する、『 ヒラルダの塔 』・・・とにかくスゴイ、、、そしてまた、気高さも感じ、「なるほどな~」と納得しました。

『 塔の一番上は信仰のシンボルの女性で、風見になっていて、ヒラヒラ動くから「ヒラルディージョ」と言うのです。 』と教えてくれたのも「原さん」でしたが、当然、塔の下からは風見は見えませんでした。

大聖堂を後に大通りを進むと、古い市庁舎がありました。「この中に、支倉一行が持ってきた『巻軸』が本当にあるのかな~ ?」と、彫刻が施された立派な建物を見ながら思いました。
そして、地図を見ながら、市庁舎の横のプラサヌエバという広場を横切り、闘牛場へと向かいました。

「マエストランサ闘牛場」の横の大通りの向かいに建っている、あのオペラの「カルメンさん」の像に挨拶して、トウリアナ橋を渡り、ペンションに戻って、また夜のための、「シエスタ」(昼寝)です。今日の夜に会う人から「カンテフェスティバル」(フラメンコの歌のフェスティバル)の情報が聞けるのを楽しみに、ぐっすり寝ました。


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フラメンコ談義15

初めてのセビージャ

『 ここが日本で憧れていたスペイン !』

今なら、マドリッドからセビージャまで、AVE(日本でいう新幹線)で行けば、2時間半
ですが、私が始めてセビージャに行った時は、アト-チャ駅を、夜の11時に出発して、セビージャに、朝早く着くという夜行で行きました。

 当時、セビージャには二つのレンフェ(スペイン国鉄)の駅があり、カディス駅とコルドバ駅と呼ばれていました。 マドリッドからは、「プラサ デ アルマ」(通称コルドバ)駅に着きました。ムデハル様式(イスラムの文化を色濃く残した様式)の煉瓦と鉄のドームの建物は、今は展示会場などとして使われています。

 初めて着いたセビージャのコルドバ駅から、地図を見ながらまずは知人の住む、トゥリアーナ地区を目指して歩きました。 ここは、フラメンコの古い伝統をもち、セビージャのヒターノ(ジプシー)居住地で、フラメンコの歌い手や、踊り手、また、有名な闘牛士がたくさん昔から住んでいると聞いていた所です。

グアダルキビル川にかかる「イサベル2世橋」― 通称・『トゥリアーナ橋』- まで歩き、川向こうのトゥリアーナ地区をはじめて見た時、 「本当に今もヒターノがたくさん住んでいるのかな~ 、フラメンコのアーティストもたくさん住んでいるのかな・・・?」と思いながらこの橋を渡りました。 

この、トゥリアーナ橋は、パリの「エッフェル塔」の時代のもので、ほとんど「鉄」で造られています。自動車が通った時、足元が少し変だな?と感じたのですが、大きなバスが私の横を通った時は、はっきり橋が上下に動いているのがわかり、「この橋、大丈夫かな ?」と心配しながら渡りました。 ふと振り返ると、遠くに『ヒラルダ』(大聖堂の尖塔)や、『黄金の塔』、そして、『マエストランサ闘牛場』、また、周りの建物よりもひときわ高い「シュロ」の樹、等が、6月(こちらスペインではもう夏)のコバルトブルーのもとで、日差しのかなり強い朝日を浴びていました。

 セビージャは古くから陶器が有名で、トゥリアーナには、花柄の絵ざらや壺を売る店がたくさんありました。 そんな店がならぶ、橋を渡って正面前方にのびる「サン ハシント通り」の「ペンション」に宿を決め、知り合いに紹介してもらった人に会いに行きました。 
 トゥリアーナ橋を渡ってすぐ右に在る「公設市場」から少し離れたところにアパートを借りて住んでいる方で、古い黒ぶちのめがねをかけ、日本にいた時、テノールで歌っていたこともあるという、とても声のいい男性でした。
( この「原さん」とはこれ以来、友達になりました。・・実はつい最近、同じ黒ぶちのめがねをかけ、前歯に自分で治した(造った?)差し歯をはめ、日本に帰国しました。 )

彼のアパートの近くには、昔、『異端審問所』( カトリック世界で主に異端者の告発と処罰を目的として13世紀に設けられた機関。----スペインでは、1834年廃止された。--- )が在ったそうで、今も、通りの名前( INQUISICION 通り)として残っています。・・・ということや、コロンブスが、ここセビージャに持ち帰った(かっぱらった)金の量とか、・・・、博学の彼、原さんからは、その時、いろんなおもしろい話を聞きました。

 ここセビージャでは、いくら歩いても、なぜか疲れません。日暮れになると、「BAR(バル)」で、コップ一杯の「カーニャ」(生ビール)とタパスをつまみ、違う店では、美味しいタパスと「へレス」(シェリー酒)でまた一杯。飲み歩く街並みは、白壁の家々、ベランダには花を咲かした植木鉢、街路樹が、オレンジで、夜は、どこかあたたかさを感じさす水銀灯がそれらを照らします。そして、常にどこからともなく、「パルマ」(フラメンコの手拍子)が聞こえてくるのです。

『セビジャーナス(セビージャの民謡、舞曲)』を歌いながら、時には『ブレリア』のリズム!・・・
 
「ここはマドリッドと全然違うな~ !!」・・・と体全体で感じ、周りにいっぱいフラメンコがあると思い、自分でも、つい下手なパルマを打ちながら歩いたり、とにかく嬉しくてたまりませんでした。

 日本でアルバイトをして、お金を貯めていた時に憧れていたスペインが、ここに在る! と思いました。


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フラメンコ談義 14
  **  フラメンコは「音楽」ではありません。 **

「アモール」(フラメンコのスタジオ)でギターを弾いていた二人の日本人ギタリストとも友達になり、お互いに影響しあいながら、よくあそびました。
 「Masuko ちゃん」と「Kujira くん」(二人とも現在日本で活躍しています。)とは一緒によくギターを弾きました。 彼らは、ピソ(アパート)を借りていましたので、当然、台所があり、料理が作れて、私はよく遊びに行きました。皆で、なれない料理を作り、量り売りの安いワインを飲みながらフラメンコの話やバカ話をするのが楽しみでした。

 ・・・若い時の、私と「Masuko ちゃん」の写真が、佐藤愛子さんの本の『娘と私の天中殺旅行』に出ています。単行本ではなく、ピンク色の本で、185ページ・「マドリッドのフラメンコの練習場には日本人のギタリストもいた」・・・と写真だけで名前は出ていませんが、 左から、手だけの「テレサ」さん(かわいそう~!)、「Masuko ちゃん」,後ろに立っておられる「佐藤愛子」さん、そして、佐藤さんの娘さん、右の端が私です。・・・(大変おもしろい本です。)・・・

「Masuko ちゃん」のピソ(アパート)で、3人でフラメンコのレコードや実況のテープを聞きながら、『このギターリストはかっこ良いとか、よくないとか』『この実況のテープ聞いてみな !』とか、フラメンコを聞きながら、いろんな話をしたものです。そんなある日、夕食の時間になり、近くの日本レストラン・「東京飯店」に行きました。

 この、ラストロ(のみの市)の近くにあった日本レストランは現在ありませんが、なかなか安くておいしい店でした。経営者の「?」さんはおもしろい人でした。
我々3人が、わらいながら、にぎやかに席に着くと、『今日は皆さん、飛んでられますね~!』・・、「Masuko ちゃん」が言ったのだと思いますが、『今日は、あまり、やっていませんよ! ワインを三人で少しだけやっただけですよ。!』・・・・『失礼しました。ところで、ご注文は?』と聞かれ、3人とも、いつもより、おなかがへっていたので、とにかくたくさん注文しました。

 3人は食べながら、フラメンコの話やギターの事、弦の事、いろんな踊り手の話などを、わいわいと話しながら、お腹いっぱいになりましたが、こちらの習慣、食後にはデザートです。
黒ぶちのメガネをかけた経営者自らが注文に来てくれて(というか、ウエーターさんがもともといませんでした。)、『デザートは何になさいますか?』・・、『Kujira お前何する?』・・、『ボンちゃんは?』・・、結局、おいしい、いつものエラード(アイスクリーム)にしました。

・・・『チョコラーテを三つください。』・・、と言うと、『うちは、そんな不純な物はおいておりませ~ん!』・・『えっ? アイスクリームは無いのですか?』と「Kujira くん」が笑いながら言うと、・・・、『エッ!・・アイスクリームのチョコレートですか?、アッ! それならあります。いまお持ちしますので。』・・・3人で大笑い。(??)

 あっ そうそう、「Masuko ちゃん」のピソ(アパート)の隣には今は有名な、「堀越千秋」さん(画家・カンタオール)が住んでおられ、時々、カンタオールの「アグヘータス」を見かけました。

ある日、「Kujira くん」のピソ(アパート)に行くと、「Bomba ちゃん」(現在も日本で活躍しているギタリスト)が、「どさまわり」というか、巡業の仕事から戻ってきていました。 (後に、私もした「どさまわり」についてはまた詳しく書くつもりです。)
「Bomba ちゃん」から、スペインでの仕事の話を聞かしてもらいました。自分も何時か、出来たら良いな~とその時思いました。

ある日、『ボンちゃん、パコ・デル・ガストールというギタリスト知ってる?』と、「Masuko ちゃん」から聞かれました。『ガストール ?』・・・私は知りませんでした。

・・・・『 「トーケ デ モロン」といってね、 「パコ」の伯父さんが、「ディエゴ・デル・ガストール」というギタリストなんですよ。・・・ 』・・・と、その時いたギタリストの「ぺぺ」から、いつものように教えてもらいました。 その「パコ」のギターが今、マドリッドで、聞けるというのです。

私は、スペインに着いて数ヶ月目に、「パコ・デル・ガストール」のギターを聞いてしまいました。・・踊りの「ファイーコ」と、歌い手―「ガスパル・デ・ウトレラ」の伴奏、そして、今は亡き「バンビーノ」のブレリアや、ルンバの歌の伴奏。

・・・歌と踊りとギター、そしてその場(客を含む)のアイレ(雰囲気)が一つになる『場』に自分が居て、自分が日本人であることが、そして、まだよくフラメンコがわからないのに『こんなすごい雰囲気の場』にいる自分が信じられず、(ここにいてもいいのかな?)と、一瞬、思ったのをよく覚えています。

・・・『 そこの、日本から来たお兄ちゃん、我々と同時に「オーレ!」が言えない?・・・スペイン人にだって、わかんないやつはいるんだから、気にするな、好きなんだろ、少しは分かっているようだから、我々と一緒に楽しめばいいんだよ !』・・・

・・・と周りから言ってくれているように感じたのです。というのも、周りの多くのスペイン人と目が合っても、変な顔は見せず、『今の見たかよ! よかったな~』『今のギター聞いた? 最高だな~』・・・と私に本当に言ってるように、そして仲間に入れてくれているんだ、と思えたのです。

そして、何日も通って、身体全体で『フラメンコ』を感じられたことは、本当についていました。・・・
 この時に録音したテープは、後に「パコ」にも「モロン」まで持って行ったし、「ディエゴ」が好きな日本の高瀬さん(私の友人)にもお土産にしました。

 この隠して録音した「実況テープ」はとにかくよく聞きました。とくに、ギターで気持ちが入らず、落ち込んだ時や、後の「どさまわり」の仕事の時、自信を無くした時も。とにかく聞くと、元気になり気持ちが湧いてくるのです。

そしてこの時、フラメンコは、 音楽とは違うな~ 、もっと奥の深い『 何か 』があるな~と身体で気付きました。
 しかし、フラメンコが心底好きでわかるスペイン人と、私自身のなかから、本当に感じて「オーレ~!」と、同時に言え、『 何か 』を共有して話せるまでには、この後も、何年もかかりました。     

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ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

Copyright: 佐々木郁夫。。All Rights Reserved.

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