佐々木郁夫のぶろぐ
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プロフィール
HN:
佐々木郁夫
年齢:
72
性別:
男性
誕生日:
1952/04/10
職業:
観光通訳ガイド
趣味:
音楽、絵、人を楽しませること
自己紹介:
1978年スペインに渡る。
フラメンコギターをパコ・デル・ガストールに習う。
ドサ回りの修行の後、観光通訳ガイドをはじめる。

現在、
日本人通訳協会会長、
SNJ日西文化協会副会長、
マドリード日本人会理事。

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フラメンコ談義 11

「言葉はスペインに行けば何とかなるよ!」は、うそ!? 

NHKのスペイン語のラジオ講座で少し勉強しただけでやって来た私は、はじめは特にスペイン語が大変でした。ペンションの肝っ玉おばちゃんが毎日、『オラー コモエスタ キーコ』とか『オラー ケタル』といって私の顔を見ると話しかけてくるのですが、はじめはわからず、日本人の悪い癖「 にた~ 」と笑ってごまかしていました。しかし、毎日笑って答えていると自分でもバカのようで、何を言っているのか、また、どのように答えるかを会話の本で調べました。

『調子はどう? キーコ(おばちゃんがつけた私の呼び名)』とか『元気~?』と聞いてくれていたことがわかったのですが、「元気でーす」というスペイン語のイントネーションがもんだいです、・・『鼻炎』ではなく、『び・えん』でもなく『ビエ~ン』かな?
・・・わからず、またしばらくの間、笑ってごまかしていました。

ペンションでは自炊ができないので、食事は近くのレストラン(スペイン料理)で食べるのですが、料理の注文は、笑ってごまかせませんので、これがまた大変。
メニューが何と、全てスペイン語! 
「スペイン語会話」の本に載っていないメニューが多く、しょうがないので、「前菜」も「スープ」も、「肉」料理も「魚」料理も、メニューを上から順番に毎日、注文していきました。といっても言葉で注文したのではなく、メニューに指をさし、『エステ(これ)』と言うだけです。

あるレストランでは、食べ終わった後、カマレロ(ウエーター)がスペイン語で聞くのです、何を食べたかを! 何で注文した料理を書かなかったのかが不思議でした。

しょうがなく、またメニューを持ってきてもらって指を使いました。こうしているうちにスペイン料理の種類をだんだん覚えていきました。

ある日、いつものようにペンションのテレビのある居間(兼、食堂)に辞書を持っていくと、肝っ玉おばちゃん(体重は100キロぐらい)と小学6年生ぐらいの息子が食事をしていました。豚骨スープの中に「そうめん」を2センチ位の長さに切ったような物(細くて小さいマカロニ)がたくさん入ったのを美味しそうに飲んでいました。その後は、ジャガイモとキャベツ、二センチ位に切られた、赤いソーセージ(チョリソ)や黒っぽいソーセージ(モルシージャ)が1個づつ、ほとんどが脂身の豚肉がひとかけら、そして「ガルバンソ」という豆(日本で言う「ヒヨコマメ」)がたくさんお皿に入っていました。(「コシード」という料理)温かそうに湯気の上がった料理がとてもおいしそうでした。

ヨーロッパの人達が食べる食事は、フランス料理のようなものか、または、ステーキのような豪華な食事をしているものと何故か思っていましたが、ペンションの肝っ玉おばちゃんの料理は、野菜が中心で、あとは、腸詰ソーセージが少し、または鶏肉か豚肉で、高い牛肉はまれだったと思います。 

この小学生の「カルメロ」という名前の男の子に頼んで、パン屋や郵便局の場所、朝食のミルクやバターを売っている店、市場、そして、部屋の暖房に使うキャンプ用の小さなガスストーブのボンベを買う店、雑貨屋・・・等、日常生活に必要な事を教えてもらいながら、会話の練習の相手をしてもらいました。ひと月の「レッスン代」をわたすと、とても喜んで自分の欲しかったカメラを買い、家族に自慢して見せていました。

『おまえは、自分で働いたお金で買ったんだよ! 良かったね!』と息子をほめる肝っ玉おばちゃんや兄弟。そして『グラシアス キコ』(ありがとう キーコ)と言ってくれた家族。私は、『デ ナーダ』(どういたしまして)と言い、その後、「ありがたかったのはこっちで、私に付き合ってスペイン語を教えてくれたのだから当然ですよ! 
こちらが言う言葉です、 グラシアスは!」と、その時言えなかったのが残念でした。

ペンションのこの小学生のカルメロ君に教えてもらったスペイン語のノートを頼りに一人で買い物をするのですが、スペイン語は失敗ばかりでした。

ある日、ガスストーブのボンベと牛乳(1リットルの瓶)とパンを買いに出かけました。
牛乳を売っている店で、「ダメ、ウナ ボンボーナ デ レーチェ」(ミルクのボンベをひとつください)と言いうと、変な顔して私を見ましたが、店のおばちゃんはミルクを売ってくれました。しかし、ガス屋で、「ウナ ボテージャ デ ガス」(ガスの瓶をひとつ)というと、店のおっさんが、私が持っている牛乳瓶とパンを見ながら、「ナントカ カントカ ベラベ~ラ ベ~ラベラ、 あっはは~(笑い)・・・ボンボーナ! ボンボーナ!」と、大きな声でしゃべってきて、何事かな?と、しばらくわかりませんでしたが、牛乳の「瓶」(ボテージャ)とガスの「ボンベ」(ボンボーナ)とを間違ったことに気付きました。

恥ずかしかったのですが、「ボンボーナ ボンボーナ !」と私も大きな声で言いながら、店のおっさんと一緒に笑いました。

このおっさんとはその後、友達のように仲良くなりました。それからは、間違ってもいいから恥ずかしがらずにスペイン語はしゃべればいいんだと思い、会話をするようになっていきました。やさしいスペイン人は間違ったら直してくれます。

「スペインに行けば何とかなるよ!」とは、このように大変ですが、何とかなります。

拍手[8回]

フラメンコ談義・10
*「アモール・デ・ディオス」の稽古場 *

私が部屋を借りることになったペンションから、スタジオのある「アモール・デ・ディオス」通りまで歩いて5分ぐらいでした。 スタジオの上にも「オスタル・グランハ」(ペンション)があり、日本人のギタリストや、踊り手が住んでいました。

 『はじめに「TERESA」に紹介するから、・・まあ、ここの主のような踊り手かな、多分世話になると思うから。』と、TAKEMORIさんから話を聞きながら、私は初めて「アモール」(フラメンコ・スタジオ)に入りました。はじめに、受付の「マリア」というおばさんを紹介してもらい、『オラー、と言えば良いから』と聞き、そう挨拶しました。 TAKEMORIさんと「マリア」おばさんが話していることは分かりませんでしたが、・・「この友達も、ギターを勉強に来たのでこれからよろしく。・・あ、名前は、“アルボンディガ”と言うんだよ。」「(笑いながら)ホントにー ?」とか言っている様子なのが雰囲気で分かりました。

アモールのスタジオ( アモール・デ・ディオス通りのフラメンコの稽古場 )は一階と地下に大小の練習部屋があり、時間単位で部屋を貸し、それぞれの踊り手が部屋を借り練習をしたり、プロの振付家や、プロの名の有る踊り手がグループレッスンや個人レッスンの教室を開いたりしているスタジオで、いろんなプロのアーティストも出入りしていました。

 私は緊張してTAKEMORIさんの後について行き、階段を下りてすぐの練習部屋に入りました。 そこは、TERESAさんの練習部屋で、日本人のギタリストが二人( “MASUKO―CHAN”と“KUJIRA―KUN”―愛称― )が伴奏していました。私は緊張してかたくなり、丁寧に挨拶したのか、「もっと気楽にしたら」と言われたことを覚えています。TERESAさんの踊りの伴奏にTAKEMORIさんも加わりました。 踊りの伴奏をほとんど経験していない私は、何度もコンパス(リズム)を見失い、難しくて分かりませんでした。(「みんな、すごいなー !」 と驚きました。) 

翌日から、それぞれ三人の先輩の横でいろんな踊り手の伴奏が出来ました。新しく来た私をこころよく受け入れてくれたことがとても嬉しく思ったものです。

お世話になったTAKEMORIさんは、私が来てから、一ヶ月ぐらいで帰国しました。 同じペンション(1号室と5号室)だったので、ギターを弾き合ったり、一緒に食事に行ったりしていましたので、彼が日本に帰った時、大変心細く思ったのを覚えています。 彼からは、5千ペセタでスタジオ用のギターをわけてもらい、このギターを持って月曜から金曜までアモールのスタジオに通い、おもにTERESAさんの部屋で弾かしてもらいました。
( 多くの思い出を共にしたこの「5千ペセタのギター」は今も大切にしています。)

 彼女の練習の後は、皆で近くの「BAR」で「カーニャ」(小さなコップいっぱいの生ビール)をよく飲みました。

『アルボンディガ、ほれ、ボンちゃん、皆の飲み物を注文して、お金も払って・・・冗談冗談。・・はい、スペイン語の練習!!』とか言われ、注文させられました。 出来ないスペイン語をよく聞いてくれ、また正しく直してくれたのが、この“かどのバル(BAR)”で働いていたスペイン人のお兄ちゃん、名前を確か、「パスクアル」といいました。私が「ポルファボール」(お願いします)と注文の前につけると、パスクアル兄ちゃんは「シン、ファボール」(お願いしますは言わなくても良いよ !)といいながら、いつも笑って会話の練習をつき合ってくれました。 

そういえば、ペンションのおばちゃんも、よく、「辞書を持ってこっちにおいで」と家族の居間に誘ってくれ、「今話しているのはこれについて」と西和辞典を引いて指で教えてくれました。後は、おばちゃんがスペイン語の単語を言って、私に『ブスカ、ブスカ』(辞書でさがしなさい!)・・・といってくれました。 この100キロ近かった“肝っ玉おばちゃん”にも、感謝しています。
多くの人たちのおかげで、スペインでの生活にだんだん慣れていきました。

ある日、アモールのスタジオに行くと、TERESAさんがスペイン人の踊り手たちとなにやら嬉しそうに、少し興奮しながら話していました。
 それは、パコ・フェルナンデス(国立舞踊団に所属していたフラメンコ舞踊振付家)のクラスレッスンがまた始まるという事でした。 彼のクラスは、プロのギタリストと歌い手のついたレッスンで、我々ギターを学びに来たものにとっても嬉しい限りです。是非クラスで弾かしてもらいたいと思っていました。

しばらくして、パコ・フェルナンデスのクラスレッスンが、カルデロンのスタジオ(アモールのスタジオの近く)で始まりました。初日のレッスンに来た踊り手のなかには、メルチェやカルメンモーラをはじめ、プロの人たちも多く、異様な熱気がありました。
そして、TERESAさんのおかげで、スペイン人の横で、我々日本人のギター弾きもクラスで弾けるようになりました。
 
このパコのレッスンもその後、「アモール・デ・ディオス」のスタジオに移り、私は三年ほどパコのクラスでお世話になりました。また、タティーのクラスレッスンや、プロの踊り手の伴奏も出来、私は本当に多くのことをこの「アモールの稽古場」で学びました。

拍手[7回]

フラメンコ談義 9
*「アルボンディガ」の名付け親である、「PEPE」との出会い *

30キロの荷物とギターを持って、パリの駅でマドリッド行きの夜行に何とか乗れ、パスポート検査を国境近くで受け、書類を3枚も渡され、辞書を引いてもさっぱり分からず言葉が通じない世界を初めて経験しました。

 マドリッドのチャマルティン駅からタクシーでペンションにやっと着き、知り合いのギタリスト「TAKEMORI」さんに会えてほっとしました。
 一日260ペセタ(当時800円ぐらい)の、空いていた小さな部屋に荷物を入れ、彼からペンションのことや、スタジオ(フラメンコの練習場・通称「アモール」)のこと、彼が紹介してくれる踊り手やギタリストのことなどを教えてもらいました。

 これから生活する部屋で荷物を整理していると、『PEPEが来たから紹介するので、俺の部屋に来てくれる。』と呼ばれ、部屋に行き、紹介してもらったのが、昔、私がはじめにギターを習った西村健太郎さんからも聞いていた、有名な日本人ギタリストの「PEPE」でした。

挨拶をし、今朝マドリッドに着いたこと、日本でどうフラメンコと接して来たのか、・・など話した後、 『あなたも、スペインの名前が無いとスペイン人が覚えられないから、・・・彼(TAKEMORIさん)は“バンブー”なんだけど・・・あなたは~・・・そう、“アルボンディガ”・・・かな、いいだろ?』とPEPE。・・・『いいいい、最高』とTAKEMORIさん。・・・二人で大笑い。訳のわからない私まで笑ってしまいました。笑った私の顔を見て一人はまた笑い、もう一人は私の顔に指をさして、またまた大笑い。 当然どういう意味かは二人とも教えてくれませんでした。

笑い終わった後、PEPEが『あなたはついていますね。スペインに着いた今日、歌い手のエル・ガジーナ(ラファエル ロメ-ロ)とペリーコのギターが聞けますよ。!!』私は二人ともどんなアーティストなのか知りませんでしたが、お願いして、三人で出かけることになりました。 

出かける準備に自分の部屋に戻り、“アルボンディガ”をさっそく辞書で調べました。「 えっ! こんな意味!! ・・ちょっと鏡を見て、・・・ま、いいか、今日もお世話になるし、これからも世話になるから。 」と思ったものです。

この私のニックネームになった“アルボンディガ”を一度聞いたスペイン人は二度と忘れません。 ( あの『カマロン』(有名な歌い手)も二度目に合ったときに、覚えていました。 )

以来、日本人の友達からも、“ ボンちゃん ”と呼ばれるようになったわけです。

PEPEとTAKEMORIさんに連れて行ってもらった「ペーニャ・フラメンコ」は地下にありました。 昔、アメリカの西部劇の撮影がスペインの南(アルメリア郊外の“ミニハリウッド”)で行われた時、よくインディアンの酋長役をやったという、カンタオール(フラメンコの歌い手)のラファエル・ロメ-ロが小さな部屋でマイク無しで歌い、ペリーコ(息子)のギターも、生で、目の前で聞けました。 スペイン人達は、歌の内容に耳を澄まして、食い入るように聞いていました。そして時々、掛け声を、『オーレー !』と小声でかけるのです。そして、微笑みながら、相槌を打っています。 ギターが歌を盛り上げ、ファルセータ(メロディー)の、なんともいえない“間”というか、音の“鳴き”を聞いてか、周りの人たちが『オおれー』と微笑み混じりの掛け声をかけていました。

 歌の内容がさっぱりわからない私は、カンタオールの声を聞きながら、座って歌う彼の顔の表情や手振りを見て、そして、ペリーコの右手のギターに対するタッチや、ラスケアード(フラメンコ独特の「奏法」)、 左手のコードやポジションを見たりしていました。 ペリーコは“顔でギターを弾いている”かのようにファルセータ(メロディー)と顔の表情が一体だったのが印象的でした。

この「 ペーニャフラメンコ 」では、数ヵ月後、ギタリストの『エンリケ・デ・メルチョール』のギターソロも聞きました。その時、何と、彼の親父のギタリスト『メルチョール・デ・マルチェーナ』が息子のギターを聞きに来ていました。 エンリケの演奏中に、私たちの方を見た名匠に「おまえさんら、右手の爪が長いが、ギターやってんのかい?」とジェスチャーで聞かれ、友人と一緒に頭を縦に振って「はい」と答えました。 するとギターを弾いている息子の方を見て、右手でギターを弾く格好をして、同じ右手の手のひらを下の向け、その手のひらをゆっくり揺らし( 「息子の出来は、まあまあだ」の意。 )手振りで話してくれました。あの時の、メルチョール・デ・マルチェーナのダブルの背広姿がとても印象的でした。

 

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フラメンコ談義 8

*『18歳から、たたみ一畳につき、いくら払って来た?』*

尋常小学校の4年生まで学校に通い、11歳の時から西陣の「おりや」さん(能と歌舞伎の衣装専門店)に丁稚奉公に出た私の親父にとって、二十歳にもなる息子から、大学の入学金の相談(催促)を受け、『おまえも、大変やな、 まあ、頑張りや。』・・・と言った親父が今ではとても好きです。

「冷や飯」に、「めざし」と「たくわん」、という「丁稚の食事」で、頭をたたかれながら覚え、磨いてきた自分の技術を二人の息子に伝えたかったのだろうと思います。兄貴もそうだったようですが、『私立の高校は高いからあかん。安い公立の高校の入学試験に落ちたら、わしのあとつげよ。』と親父から言われ、そういう約束でした。高校の入試発表の日、私より先に発表を見てきた親父とばったり高校の近くで出会いました。 『あった、あった』と私に伝え、雨の中、小走りに仕事場に戻っていく親父、一瞬、時が止まったようなその場で、親父の声の余音が残るなか、曲がり角までしばらく見えていた親父のうしろ姿が、忘れられません。・・・・

『お父ちゃん、これが今まで貯めた、貯金通帳で、これが飛行機の切符です。一年か二年、ちょっとスペインに行って来ます。』『・・・・・』親父は何も言いませんでした。

  数日後、仕事で京都にもどった兄貴と銭湯に行き、しばらく会えない兄貴の背中を流しました。 『ちょっといっぱいやろか』風呂屋の向かいの「すし屋」に誘われ、『ええ兄貴や。 まずはビールやな、なに食べよかなー 』と思いながらカウンターに座りました。
ビールを一口、そして、「つきだし」を摘んでいたら、『おまえ、お金持ちの家の息子みたいに外国に留学するんやて ?』・・・『( えっ! ) ・・・高校出てから好きなことして来たけど、アルバイトして、大学の学費も親には迷惑かけなかったし、少しやけど自分の食費も家に入れてたし、経済的に自立せんと何もいえないから、・・今回も自分で貯めた』と私が話しているところに、兄貴から、『おまえの寝てる部屋は4畳半やったな、18から、たたみ一畳いくら払って来た ? 』・・・・・・・・『おまえが貯めたお金は、 本当におまえのもんか ?』 『・・・』しばらく何も言えず、すしの注文どころではありませんでした。
 しかし、この日の夜、私は兄貴から多額の餞別をもらいました。その封筒をマドリッドのペンションの小さな部屋で、家族の写真と共に見て、兄貴の言葉を思い出したものです。

 1978年の11月の末頃、いまは亡き三人(両親と義兄)に、伊丹空港まで送ってもらい、羽田から、できたばかりの成田空港にバスで着き、「18万5000円・ローマ・パリ8日間ツアー」を利用して(というのも、片道のパリまでのエアー料金が「大韓」で13万5千円でした。5万円の追加でローマとパリがホテル・観光・食事付きで見れると思ったからです。)、パリからは一人で、夜行電車に乗って、12月の3日、とても寒くて小雨のマドリッドのチャマルティン駅に着きました。

地下鉄の「アントンマルティン駅」の近くの「アモール・デ・ディオス」道りに在った、フラメンコの練習場と、近くのペンションを往復するマドリッドの生活が始まりました。

拍手[9回]

*「ディエゴ」を聞いていた、高瀬さんとの出会い *

アルバイトとギター、そして大学と、一日を三つに分けての生活にも慣れ、そしてスペインへ行くことを目的とした生活が始まり、目的を持てた自分の心が、やっと落ち着いたように感じたものです。  自分は何をして生きていくのかを悩み、まず何をしたいのか、何ができるのか、何でもいいから自分の全てを打ち込める何かが欲しかった時に出会った「ギター」が弾け、お金が稼げ、一年間の学費も、自分で払う為に10回の分割払いの話が大学側とまとまり、たまには、親父の酒のつまみをバイト先の「錦」の市場で買ってこれ、そして、スペインへ行くための貯金も出来る生活を楽しんでいました。

フラメンコギターのことも、もう少し本格的に知りたくなってきました。コンパス(リズム)、特に「ブレリア」のファルセータ(小メロディー)の入り方がどうもわからず、「ラスケア-ド」も舞台やテレビで見ると、親指も使って手首が回転しているように見え、自分ではどうにもならず、困っていた時に出会えたのが、ギタリストの「 TETSUO 」さんでした。 左足でコンパスを取ることや、手首の動きを利用して弾く「ラスケア-ド」を習い、そして、レコードからファルセータが取れることも教えてもらいました。
 
 ・・・「パコ」といえば、パコ・デ・ルシア か パコ・セペロ、パコ・デ・アンテケーラ・・・ぐらいしか、私がスペインに来た当時知りませんでした。しかし、マドリッドの街の中心、プエルタ・デル・ソルの近くの大きなサラ・デ・フィエスタ(ナイトクラブ)で、歌い手の『バンビーノ』の伴奏をしていた『パコ・デル・ガストール』のギターを聞いて、また、その舞台と客席が一つになった異様な雰囲気に、・・・・・・・
・ドカーン ! 
フラメンコギターを『音楽』と思っていた自分に、『これがフラメンコやでー!!・・』 ・・と、『音楽』の枠をはみ出した「何か」が強烈に私の身体の芯に突き刺さってきました。・・・何日も通い、ドンドン出てくる、『ディエゴ・デル・ガストール』(パコの叔父さん)のギター(ディエゴ節)・・・「えっ ! これって、京都の高瀬さんの家で聞いたことがある !!」・・・・ この時の驚きと、なんともいえない生の迫力は今でも忘れられません。(この時の実況録音テープは当然、高瀬さんへのお土産にしました。)・・・

この、私がマドリッドで、はじめて感動した「ディエゴ」を聞いていた高瀬さんとは「TETSUO」さんの「フラメンコショウ」が行われた所(確か何処かの、舞台があるレストラン)で出会い、お互いギターを習っていることが縁で付き合い始めました。よく家に遊びに行き、たくさんの輸入版のカンテ(歌)のレコードを聞かして貰いました。

『 歌とギターの「絡み」と「間」というか全体の雰囲気が、ええなー 』という高瀬さん。しかし、私はギターのファルセータ(間奏メロディー)ばかり聞いていました。というのも私にとって、『ギター』が一番大切で、ソリストになることを夢見ていたからです。当時はまだ、音楽性豊な表現力があるフラメンコギターのソロギタリストになりたいと思っていました。 
その後、「TETSUO」さんの紹介で、高瀬さんと私は、大阪まで、ギタリストの「YUKI」さんに習いに行くことになりました。 私は「パコ・デ・ルシア」のギターソロを教えてもらい、夢中で弾いていました。  スペインに着いて数ヶ月が過ぎるまで。

いつも、私が京都に帰った時に必ず泊めていただくのが、高瀬さんの家です。本当にフラメンコが好きな、ディエゴを昔から聞いていた高瀬さんとスペインのワインを飲むのが楽しみです。


拍手[8回]



ぼんちゃん紹介

本名:佐々木郁夫
誕生日:1952/04/10
職業:観光通訳ガイド
居住地:マドリード
役職:日本人通訳協会会長、マドリード日本人会理事
連絡先:こちら

あだ名は「ぼんちゃん」。これは、フラメンコギタリストとして、"エル・アルボンディガ(ザ・スペイン風肉団子)"という芸名を持っていたため。アルボンディガのボンからぼんちゃんと呼ばれるようになった。
案内するお客さんにも、基本的にぼんちゃんと呼ばれる。このため、本名を忘れられてしまうこともしばしば。 続きを読む

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